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2013年7月6日掲載 − 脱原発 ・ 自然エネルギー
抗議文化を育てる

フクシマ事故から二週間経った3月26日、ドイツではベルリン、ケルン、ハンブルク、ミュンヒェンの大都市で反原発デモ集会が行われ、全国で25万人の市民が集まりました。デモは反原発団体、環境団体、市民グループなどが共同で呼びかけて実施されたもの。ドイツの過去の反原発デモとしては、過去最大のデモとなりました。


ドイツの首都ベルリンでは、約12万人の市民がデモ集会に集まります。半年前の2010年9月には、ドイツ政府の脱原発政策見直しに反対して10万人の市民が国会議事堂と首相府を包囲してデモ行進を行ったばかりでした。


ドイツでは過去10年間、反原発デモやイラク戦争反対デモなどの大きなデモが行われてきました。ただドイツの抗議デモは、ここ10年で大きく変わってきたと思います。


ここ数年来デモで目につくのは、一般市民の参加者が非常に増えたということです。赤ちゃんや小さな子どもと一緒の家族連れ、中学生や高校生のグループ、若いカップル、中年女性のグループ、老年のカップルやグループなどなど。参加者層が幅広くなってきました。学校の先生が引率して、授業の一環のようにクラスでまとめてきているグループもいます。


デモには、長い間反対運動を続けてきたのだろうなとすぐにわかる活動家もいます。しかし、そういう活動家たちは少数派となりました。それほど一般市民の参加が増えたということです。


警官がデモの警備のために、表に出ることもありません。警官はデモに参加する市民から見えないところで、万が一のために備えて待機しているだけです。デモは、市民パレードのような和やかな雰囲気で行われます。


一般市民は、動員されてデモに参加するわけではありません。新聞やインターネット、口コミでデモがあることを知って、自分の意思を表現するためにデモに参加します。それが、市民の表現の自由ということです。


デモの主催者もデモの実施に慣れており、各団体が連携してうまく組織されています。


ぼくはフクシマ事故年の11月、高レベル放射性廃棄物がフランスの再処理施設からドイツのゴアレーベン中間貯蔵施設に輸送される時の輸送阻止デモを中間貯蔵施設の周辺地域で取材しました。高レベル放射性廃棄物は、ドイツから運ばれてきた使用済み核燃料を再処理することによって発生したものでした。


中間貯蔵施設周辺では、高レベル放射性廃棄物を搭載した列車の走るルートに添って、輸送阻止デモに参加する市民を受け入れる野営キャンプが何ヶ所にも設置されていました。地元住民や環境団体、社会福祉団体などが全国から集まってきた市民のために、各地に情報スタンドを設置するほか、ボランティアで暖かい紅茶やスープを炊き出します。市民は、こうして互いに連帯していました。


輸送阻止に集まった市民は警察の監視の目をかいくぐっては、輸送列車の通る線路や鉄道輸送の後に輸送トラックの通る道路に座り込んで、高レベル放射性廃棄物の輸送を妨害します。


中央デモ集会の行われた11月26日には、2万人を超える市民が集まりました。周辺地域の農民は四〇〇台を超えるトラクターを連ねて、デモ行進もしました。


その日の夕方からが本戦です。輸送列車が目的地に近づいてきています。


少し暗くなると、市民が線路上に座り込みをはじめ、翌朝警官隊に撤去されるまで、約四〇〇〇人が夜通しで真っ暗な中でたき火を炊きながら、何時間にも渡って氷のように冷え込んだレールの上に座り込んでいました。


座り込んでいたのは、主に若者や中年層の市民。反原発活動家というよりは、一般市民という感じの人が大半でした。なぜ座り込みをしているのかと若い女性に聞いてみたところ、「原発に反対だから」という返事が返ってきました。


ドイツでは、デモに参加することを「Auf die Strasse gehen」(アウフ・ディ・シュトラーセ・ゲーエン)といったりします。直訳すると、「道路に出る」という意味です。自分の意思を表現するには、家の中にいるだけ、ネットで議論しているだけではダメ。表に出て意思表示しないと、意味がないということです。


市民がデモに参加して自分の意思を表現することを、ドイツでは「抗議文化」といいます。市民が国や政治に対して、はっきりとものをいう文化ともいえると思います。


フクシマであれほどの大惨事が起こっているのに、日本では反原発デモの参加者が少ない。ドイツ人には、その現実が不思議でなりまでん。だから、日本には抗議文化がないのかとよく聞かれます。


ぼくには、それでも参加者は多くなったほうだとしか答えようがありません。


ぼくは前々から、日本で反対デモに市民が集まらない背景に労働組合によるデモへの動員があると考えています。日本では伝統的にデモは労働組合主体で組織され、組合員にデモへの参加を義務付けて動員し、頭数さえ揃えばいいというデモでした。


何のためのデモなのか、政治的な意味を真剣に議論しないままに、デモが行われていたと思います。上から組織された形だけの表面的なデモで、デモの体裁を整えてきたにすぎません。


しかし、反対デモは下から、市民からの声を政治に伝えるためのものです。それが、労働組合によって上から組織されていては、一般市民が自分で考えて、自由に反対デモに参加できる余地がありません。それによって、デモと一般市民に深い溝ができてしまったのだと思います。


市民が一人だけでデモに参加するのは、ちょっと勇気のいることかもしれません。ぼくのドイツの友人たちは、同じ考えを持っている友人や知人などにデモに一緒に参加しようよと、声をかけ合って一緒にデモに参加しています。そうして、市民一人一人が抗議の輪を広げて、一緒に自分の意思を表現しています。


ドイツでもデモに参加するのを、「ダサイ」と思っている若者がたくさんいます。しかし、デモに参加するのは一つの自己表現です。デモに参加している市民は、ピカピカ輝いています。


だからぼくは、デモに参加している市民を「カッコいい」と思っています。


(2013年7月6日、おすと   えいゆ)
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