さよなら減思力

リチャード・ワーグナー

 知人の日本人女性のところに、ドイツにきて間もない日本人の女性から電話が入りました。女性は、「リチャード・ワーグナーについて、少し教えていただきたいのですが」といいます。

 知人は一瞬、耳を疑います。「リチャード・ワーグナー」とは、一体誰のことかしら。

 でもすぐに、それが「リヒャルト・ワーグナー」のことだとわかりました。知人はピアニストですが、ワーグナーのことには詳しくありません。それならと、電話の主にオペラ通のぼくのことを紹介しました。知人の女性から、電話がきたらよろしくねと連絡がありました。でも結局、電話の主はぼくには聞いてきませんでした。

 この日本からきたばかりの女性は、ぼくがいつも気にしている問題をどんぴしゃりと実践してくれました。これは単に、ドイツ語の発音の問題にすぎないかもしれません。でも、根本はそうでもないと思います。

 ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーは、「Richard Wagner」と書きます。ドイツ語がまだよくできない電話の女性は、これを英語読みに「リチャード・ワーグナー」としたのでした。それはそれで、間違ってはいません。むしろ問題は、「リヒャルト・ワーグナー」にあります。

 Richard Wagnerはドイツ語で、[riçart vάːɡnər]と発音します。だから、Richardを「リヒャルト」とするのは問題ありません。問題は、Wagnerを「ワーグナー」とすることです。ドイツ語では、半母音の「w」は[v] と発音します。これが難しいのは、すでに「はじめに」で書きました。上歯を下唇に軽く載せ、「w」に続く母音が「a」であれば、「ア」といいます。ドイツ語の「wa」はむしろ濁音に近く、英語のように決して「ワ」と澄んだ音ではありません。

 この音は、日本語にはありません。ドイツ語の辞書には、「ヴァーグナー」や「ヴァグナー」と記されていることもあります。でも、「ヴァ」という音は日本語にはありません。音からすると、日本語の「バ」に近いかもしれません。でも、「バ」はドイツ語の「ba」で、上唇(!)を下唇に軽く当てて発音します。だから、作曲家のBachは「バッハ」となるのです。その区別もしなければなりません。

 ドイツ語の「wa」が日本語にない音だからと「ワーグナー」とすると、英語読みになってしまいます。「リヒャルト・ワーグナー」は、ドイツ語読みと英語読みが混じっています。そのほうが、もっと変です。

 日本には、外国語の固有名詞を最も原語の発音に近いカタカナで音写するという慣用があります。同時に、慣用として定着したものは慣用となっているものを用いるという慣用もあります。「リヒャルト・ワーグナー」は、後者の慣用を用いて、そうでなければいけないと頭に刷り込んでしまった表記なのだろうと思います。でもちょっと考えれば、英語にはない読み方(リヒャルト)と英語の読み方(ワーグナー)が混じっていることに気づいてもおかしくないはずです。

 ドイツでは、「ワーグナー」と発音しても通じません。そうならないように、ドイツ語の辞書では「ヴァグナー」や「ヴァーグナー」と原語に近いように音写しています。

生地ライプツィヒにあるヴァグナー像

 ぼくは原則として、外国語の固有名詞は最も原語の発音に近いようにカタカナで表記すべきだと思っています。それは、そのほうが現地で通じるからということではなく、現地のことば、文化を尊重すべきだからです。ことばは、お互いに意思の疎通をはかるためのものです。お互いを尊重することなくして、対話は成立しません。だから、相手が実際に発音しているのに近い音でカタカナにすべきだと思います。それが、相手のことば、文化を尊重するという意思表示でもあります。

 知らない国で片言でも現地のことばを口にすると、現地の人と親しくなって友達になったりすることがあります。それは、現地のことばを通して自分はあなたと話をしたいという意志が伝わるからではないでしょうか。

 自分から一歩相手に近付くことで、ことばや文化の障壁を乗り越えてお互いに対話して理解するチャンスが生まれます。

(2017年8月10日、まさお)

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