さよなら減思力

イッヒとだけいえばいい気軽さ

 ぼくは、バイリンガルではありません。ぼくにとって、ドイツ語は外国語なのです。ドイツでの生活が長くても、ドイツ語はまだまだ難しいことばです。これは甘えでもあるのですが、外国人だからことばのきめ細かい表現の仕方に気を使わなくても許されるという気楽さがあります。ぼくにとってドイツ語は、外国語としての難しさはあるものの、話すのに居心地のいい、気楽なことばでもあります。

 ドイツ語を話していて一番気楽なのは、どんな場合でも自分のことを「イッヒ(ich)」といえばいいことです。

 相手が誰であろうと、ぼくはいつも「イッヒ」です。相手も、「ジー(Sie)」か「ドゥ(du)」のどちらかです。そのどちらを使うかもはっきりしていて、親しくなったら「ドゥ(du)」を使って話そうとお互いに了解すれば、お互いの関係を気にせずにファーストネームで呼び合うことができます。

 それに対して日本語の場合は、お互いの社交上の関係を考えて自分のこと、相手のことを表現することばを使い分けなければなりません。丁寧語を使うか、使わないかも、その関係によって決まります。それが適切で正しくないと、「生意気だ」とか「場が読めない」といわれます。

 日本人は、場を読んで社交上の上下関係で表現することばを選んでいるので、相手との関係次第で自分を引っ込めます。だから、日本人は自分の考えをはっきりいえません。それが、日本社会の縦構造をつくる基盤になっています。この構造が現代社会ではもう機能しない問題は、後で考察します。

 場や関係を考えて表現を使い分けるという日本語の特徴は、日本人の思考にも大きく影響していると思います。自分が相手との関係でしか定義されず、自分の位置を決めることができない。それでは、確固とした自己がありません。自分が常に、相手に依存した上下関係で定義されます。対等な関係が成り立ちません。日本人は対話がヘタだといわれるのは、ここにも原因がありそうです。

 心臓移植のためにドイツにきている日本の女子生徒を取材したことがあります。国外で手術するには、高額な治療費がかかります。その上自分に適した移植心臓が見つかるまで、ドイツの病院で長い間待っていなければなりません。日本でたくさんのカンパをもらってこない限り、国外で心臓移植はできません。

 取材する前から、女子生徒とつきそいできているお母さんがドイツでとても肩身の狭い思いをして暮らしていることがわかりました。ドイツでどういう環境にいるかは、絶対に日本に伝えないでほしいといわれました。女子生徒の地元放送局が、ベッドに横になっている姿を放映したことがありました。その後に、お前元気にしているじゃないか、どうしてそんなに元気なんだ、と書いたメールが同級生たちから届きました。女子生徒にとって、これはいじめと変わりません。それ以降、女子生徒はドイツにいることに大きなプレッシャーを感じるようになりました。

 女子生徒は、一日一回病室から廊下に数歩出る程度の運動しかできません。それは、ベッドにいるとわかりません。心臓移植が必要なほど重態なのだから、ベッドでも重態の状態でいるのが当然だ。それが、日本にいる同級生たちの頭に浮かぶ病人の姿です。たくさんのカンパをもらってきている以上、女子生徒もその枠組みにはまっていなければならなかったのです。いじめをする同級生たちが実際にカンパをしたとは思えません。でもカンパを受け取ったことで、女子生徒と同級生の間に社会的な上下関係ができてしまいました。それが、いじめの発生した要因だと思います。

 福島県からの避難児童にいじめが発生しているのも、同じ論理です。こどもたちがそういう行動を取るのは、大人の社会がそうだからです。こどもではなく、社会の問題です。

 本来、カンパをもらっていようが、避難していようが、誰も対等なのです。ぼくが「イッヒ」でしかないのは、社会においてこの対等性を保証してくれます。ただ一旦社会的な枠組みの中でことばによって上下関係ができてしまうと、対等な関係は成り立ちません。そこに、社会的な問題の起こる危険があります。

(2017年10月02日、まさお)

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