2022年6月25日更新 − HOME − ベルリーナールフト
ベルリーナールフト

「ベルリーナールフト(Berliner Luft)」は、ベルリン生まれの作曲家パウル・リンケが作曲した国民の音楽。『ベルリン市の歌』といってもいいほど、ベルリンに密着している。一般市民層のために音楽を書き続けたリンケならではのメロディーだ。


毎年6月に日本でも放送されるベルリン・フィルの野外コンサートでは、いつも一番最後に演奏されるおなじみの局だ。直訳すると、「ベルリンの空気」ということ。


このコーナーでは、ベルリンのあちらこちらから、日常の写真でベルリンの香りを届けます。


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バレー学校

バレー学校  バレー学校  バレー学校
学校の反戦ポスター

ベルリンの国立バレー学校の卒業試験を参観することができた。学校は、5年生から10年生まで。日本でいえば、公立の中高統合校だ。

まず、学校入口のホールに入って驚いた。入口ホールの床に、シリア戦争とウクライナ戦争に反対する反戦ポスターが並んでいる。

生徒たちが書いたものだという。

日本の学校だったら、政治的だとして、すぐに撤去されるはず。

それに対して、学校自らが生徒たちを支持、支援しているのがすごい。 (2022年6月25日)

6月17日通り

6月17日通り  6月17日通り  6月17日通り
6月17日通り

ベルリンの6月17日通りは、ブランデンブルク門からエルンスト・ロイター広場までの一直線の広い通り。

1953年6月17日、東ドイツの労働者など4万人以上が東ドイツ政府の政策に反発して暴動を起こし、ソ連軍や東ドイツの治安当局によって鎮圧された。多数の死傷者が出る。

それを記録として伝えるため、同年、旧西ベルリン側にある道路が「6月17日通り」と改名された。

ソ連軍による鎮圧は、その後のハンガリー動乱、プラハの春などソ連軍の動員によって民衆を鎮圧する先駆けとなったといってもいい。 (2022年6月18日)

事件現場

事件現場  事件現場  事件現場
事件現場

ベルリンでは、車が故意に歩道に突っ込み、死傷者の出る事件があった。

犠牲になったのは、卒業旅行でドイツ南西部からベルリンに来ていた先生と生徒などだった。

現場は、5年半前にテロ事件のあったすぐ横。それだけに、ベルリンではショックも大きい。

事件翌日もまだ、各国のメディアが取材するほか、追悼にくる市民がいた。

車道と歩道には、警察が現場検証した跡が痛々しく残っている。 (2022年6月11日)

ホルンダーの花

ホルンダーの花  ホルンダーの花  ホルンダーの花
ホルンダーの花

今、ホルンダー(日本語ではニワトコかな)の花が満開だ。

今年は例年になく、たくさん咲いていると思う。どこも見事だ。

ホルンダーだけではない。例年になく、植物がとても元気。緑がいきいきしている。

天候のせいだと思う。それほど暑く感じないが、平均気温は例年より高い。降雨量は少ないが、雨が多いようにも感じる。

ホルンダーは花の後に、濃い紫の実をつける。それでシロップやジュースをつくる。 (2022年6月04日)

東ドイツの列車

東ドイツの列車  東ドイツの列車  東ドイツの列車
東ドイツの列車

Sバーンの電車に乗っていると、「DR」のマークのついた列車が走っているのを見た。

「DR」とは、「ドイツ帝国鉄道」のこと。まさかと思ったが、旧東ドイツの車両をつなげた列車だ。多分、機関車もそうだろう。

その列車がベルリン中央駅に停車中、慌ててホームに駆け上がり、カメラのシャッターを切った。

すべて旧東ドイツ時代のもので構成された列車。『東ドイツ・ノスタルジック列車』とでもいおうか。

赤い車両は食堂車。ドイツ語ばかりでなく、ロシア語でも書かれている。 (2022年5月28日)

ヨーロッパセンター

ヨーロッパセンター  ヨーロッパセンター  ヨーロッパセンター
ヨーロッパセンター

ポツンと見える建物は、(西)ベルリンに建つ「ヨーロッパセンター」。

今でこそ、ベルリンにおいても高層ビルが増えてきた。だが当時としては、その先駆者だった。1965年5月2日にオープンしている。

ショッピングモールの走りだったといってもいい。同時に、戦後孤島となった西ベルリンの復興を象徴するものだったともいえる。

その目玉は、中央ホールにある水時計(3番目の写真中の緑色の部分)。昔は待ち合わせ場所にもなっっていた。だが今は時代の流れに押され、人影は少ない。 (2022年5月21日)

焚書

焚書  焚書  焚書
ナチス・ドイツによる焚書

1933年5月10日夜、ベルリン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現フンボルト大学)向かいにあるオペラ広場(現ベーベル広場)において、ナチズムの思想に反する本を焼く儀式が行われた。

ベーベル広場では現在、その過去を記憶するため、広場の地下に本のまったくない白い本棚が設置されている。

地下の本棚は、ガラス板越しに見えるようになっている。しかし地上と地下の温度差で、ガラスが曇っていることも多い。

その場合、上から水をかけると、ガラスの曇りが消える。

焚書を扇動したのが、当時の学生や新聞であることも忘れてはならない。 (2022年5月14日)

ドイツ降伏

ドイツ降伏  ドイツ降伏  ドイツ降伏
ドイツ降伏

5月08日はドイツ降伏の日。正確にいうと、ドイツ軍が無条件降伏文書に調印した日だ。

ベルリン郊外のカールスホルストにあるソ連赤軍司令本部で調印された。ドイツ国防軍工兵学校兵舎だったところだ。

正式に調印したのは独ソ両国。連合軍は副証人として署名した。

調印されたのが深夜直前だったことから、ドイツでは降伏した日が5月08日。だが、ロシアやウクライナなど旧ソ連諸国では、時差から5月09日が対独戦勝日となっている。

降伏文書に調印された場所は今、博物館となっている。 (2022年5月07日)

ヒトラーの死

ヒトラーの死  ヒトラーの死  ヒトラーの死
ヒトラー自殺

今から77年前の1945年4月30日、ヒトラーはベルリンにある地下壕で自殺した。

ソ連赤軍がオーデル川を超え、ベルリンに侵攻する勢いだったからだ。

その地下壕は長い間、そのままになっていた。

東ドイツが1980年代後半、ブランデンブルク門南東に位置するナチスの拠点ヴィルヘルム通り地域を再開発する。その時、地下壕は封鎖された。その上が緑地化され、駐車場となった(地図の7の地点)。

そこには今、当時の歴史を記述するパネルが立っている。 (2022年4月30日)

平和

平和  平和  平和
平和のシンボル

ぼくたち個人にとり、平和って何だろうか。

個人個人の体験から、平和のシンボルを見つける。そうして集まったのが、舞台の上に並ぶ。

ポーランド人のゾフィアさんにとり、ナチス・ドイツ軍の空爆で破壊された教会の基礎の破片が、平和のシンボルだ(2番目の写真)。

アンドレアスさんはスペインのゲルニカから、スペイン内戦時にナチス・ドイツ軍の空爆を生き延びたゲルニカの木(オークの木)の葉を持ってきた(3番目の写真)。

1945年2月のドレスデン大空襲を体験したノーラさんには、自宅のベランダに植える白い花が平和の証だ(4番目の写真)。

自分の生活において、平和を見つめたい。 (2022年4月23日)

ゼーロウ

ゼーロウ  ゼーロウ  ゼーロウ
ゼーロウ高地の戦い

今から77年前の4月16日、ジューコフ元帥率いるソ連赤軍がオーデル川(最初の写真)を越えて侵入してきた。ナチス・ドイツの首都ベルリンに侵攻するためだった。

そのためには、ゼーロウ高地を越えなければならない。そこでは、独ソ戦最後の激戦が展開された。それが、ぜーロウ高地の戦いだった。

それを記念する慰霊碑が、ドイツ側に設置されている(2番目の写真)。それは、ソ連赤軍の功績を讃えるものでもある。

ゼーロウ高地には今、ソ連兵の墓石(3番目の写真)、ドイツ兵の墓石(4番目の写真)が並ぶ。戦没した兵士の遺骸は今も、採掘されている。

そして今、ウクライナで戦争が続いている。人類は、戦争から解放されないのか。 (2022年4月16日)

ウクライナ大使館

ウクライナ大使館  ウクライナ大使館  ウクライナ大使館
在独ウクライナ大使館

ウクライナ戦争は、終わる気配がない。平和はほど遠い。

ベルリンにも毎日、ポーランドからの列車で、ウクライナからの戦争難民がたくさん到着している。

ドイツ社会にはまだ、難民に対するエンパシーがある。

そのエンパシーがどこまで続くのか。それが心配でもある。

ベルリンにある在独ウクライナ大使館にも、毎日たくさんのウクライナ難民が行列をつくっている。 (2022年4月09日)

桜の花

桜の花
桜より早く咲く花

先週、桜のつぼみ写真の載せた。実はその時、桜はすでにもうほとんど満開だった。

先週それまで、とても好天が続き、日中暖かかったからだ。

桜に似た花だが、桜よりも早く咲く花がある。「シュレーエ(Schlehe)」。それが、今回の花の写真だ。

サクラ属の低木で、後で紺色の小さな実をつける。花は桜よりもずっと白い。

ただもし間違っていたら、これが何という木がご教授いただきたい。 (2022年4月02日)

桜の花

桜の花  桜の花  桜の花
桜の花

ベルリンでは、晴天が続いている。雨がまったく降らない。植物にとっては、過酷な春でもある。

日中は暖かいが、朝晩はまだ寒い。朝晩は冬のコートが必要だ。それでも桜の蕾が大きくなり、花が咲きはじめた。

桜といえば日本。でもヨーロッパにも、たくさんの種類の桜がある。

最初の写真は、本当に桜かどうか確信がない。実際にはもっと、ピンク色をしている。色からすると、ソメイヨシノ。その近くにある西洋ソメイヨシノは、まだ蕾が固そうだった。

後の写真はすべて、八重桜の一種だと思う。 (2022年3月26日)

西部劇場

西部劇場  西部劇場  西部劇場
終戦直後のオペラ公演

テアター・デス・ヴェステンス(西部劇場)は今、ミュージカルとオペレッタの劇場となっている。

建物は、19世紀末に建てられた。当初はお芝居の劇場だったが、オペレッタ劇場として大成功。ナチスの時代になると、「国民オペラ劇場」としてナチスの宣伝に使われる。

ナチス・ドイツが降伏したのは、1945年5月8日。破壊された屋根がすぐに修理され、4カ月後の9月2日、ベートヴェンのオペラ⟪フィデリオ⟫が上演される。

その後「ドイツ・オペラハス」として、ベルリン・ドイツオペラが完成するまで、(西)ベルリンのオペラ公演のメッカとなっていた。

終戦4カ月にしてオペラ公演を実現するパワー。文化への憧れの強さなのか。 (2022年3月19日)

半旗

救援物資  救援物資  救援物資
ウクライナ救援物資

ドイツの公的機関では今、EUやドイツ、ウクライナの旗が半旗になっている。ロシアによるウクライナ侵攻で亡くなった方を追悼するとともに、侵攻に抗議するためだ。

ベルリンにある連邦議会議事堂でも、EUとドイツの旗がすべて半旗になっていた。

一方、救援物資を集めるため、NGOばかりでなく、いろいろな機関や市民有志が活発に活動している。

写真は、ブランデンブルク門前にあるポーランドの文化研究機関。ここでは、平日10時から20時の間、いつでも物資を寄贈できるようになっている。 (2022年3月12日)

ベルリン中央駅

ベルリン中央駅  ベルリン中央駅  ベルリン中央駅
ウクライナからの難民

ベルリン中央駅は今、ウクライナからポーランド経由で入ってくる難民を受け入れる最初の窓口となっている。

駅構内には、ウクライナの旗と矢印のついた看板があちこちに見られる。

構内は、難民と難民の世話をするボランティア、難民を受け入れるためにきている市民などでごった返していた。

一方ブランデンブルク門前では(最後の写真)、在独ロシア人がロシア人いじめをやめろとデモをしていた。プーチンへの非難どころか、戦争反対のことばは一言もなかった。 (2022年3月05日)

ウクライナ連帯

ウクライナ連帯  ウクライナ連帯  ウクライナ連帯
ウクライナとの連帯

ベルリンのブランデンブルク門は今、ロシアによるウクライナ侵攻に抗議するとともに、ウクライナとの連帯を示すため、ウクライナの国旗の青色と黄色に電飾されている。

門の前には、ウクライナ出身の市民をはじめ、戦争に反対する市民が、いつも集まっている。反対デモも、毎日のように続いている。

明日27日には、市民団体や労組などの呼びかけで、ブランデンブルク門周辺では、大きなデモ集会が予定されている。 (2022年2月26日)

石膏型

石膏型  石膏型  石膏型

石膏型  石膏型
ブランデンブルク門二輪馬車

ベルリンのブランデンブルク門といえば、東西ドイツ統一の平和のシンボルのようになった。その上に、古代ギリシア・ローマの4頭二輪馬車がある。

二輪馬車は銅製で、18世紀につくられた。戦争で破壊されたり、ベルリンの壁崩壊時に損傷したりと、何回も修復されてきた。

銅像には、そのための型も必要。

その石膏製型の修復作業が現在、連邦議会図書館の下で一般公開されている。今年2022年10月末まで。 (2022年2月19日)

ポツダム1945年

ポツダム1945年  ポツダム1945年  ポツダム1945年
ポツダム1945年

ぼくは元旦によく、ベルリンとポツダムの境にあるグリーニッケ橋からベルリンに戻るように散歩する。グリーニッケ宮殿の横をユングファー湖の辺りを歩く。

そこは、ベルリンの壁があったところ。最初の写真の右側が西ベルリン。左にある湖は東ドイツ領だった。

遊歩道は、壁のあった国境地帯。道の幅が広くてもおかしくない。でも、ちょっと広すぎるなあと思っていた。

それは、なぜだったのか。

1945年7月15日、米国トルーマン大統領と英国チャーチル首相は、この道を車で通ってポツダム入りしたのだった。ポツダム会談に参加するためだ。

2枚目の写真にある位置に仮設の橋が設置され、2人はそこで湖を渡ったのだった。

当時の歴史については、『ふくちゃんの朗読出前します』でも朗読する。 (2022年2月12日)

ローゼンタール通り39

ローゼンタール通り39  ローゼンタール通り39  ローゼンタール通り39

ベルリン・ローゼンタール通り39番地。その入り口は、こんな風になっている。

そこには、オットー・ヴァイトの工房があった。目の見えないユダヤ人などが工員として働いていた。オットー・ヴァイトはそのユダヤ人工員を、ナチスから救った。その話はすでに、ベルリーナールフトでも取り上げた。

そこは今、博物館になっている。

そのすぐ横に、アンネ・フランク・センターもある。ここは特に、青少年向けのプロジェクトに力を入れ、青少年向けの学習教材も用意されている。

ドイツの歴史を語る上で、忘れてはならない場所だ。 (2022年2月05日)

ホロコースト祈念碑

ホロコースト祈念碑  ホロコースト祈念碑 

1月27日はドイツでは、ナチス犠牲者を追悼する日。アウシュヴィッツ強制収容所が解放された日を祈念している。

ドイツは過去の過ちを忘れないように、ホロコースト(大量虐殺)祈念碑を設置した。だがそこに、差別があるのは知られていない。

ドイツ側は祈念碑において、すべての犠牲者を一緒に追悼したかった。しかしユダヤ人側が、それを受け入れなかった。祈念碑は、ユダヤ人犠牲者だけを追悼するものとなる。

でも犠牲者は、ユダヤ人だけではない。シンティ・ロマの祈念碑(最初の写真)と同性愛者の祈念碑(写真2枚目と3枚目)、障がい者の祈念碑(写真4枚目)がある。 (2022年1月29日)

オット広場

オット広場  オット広場  オット広場

今から80年前の1942年1月20日、ベルリン郊外の湖畔でヴァンゼー会議が行われた。ナチスドイツはそこで、ユダヤ人を組織的に大量虐殺することを決議する。

ベルリン中心にあるローゼンタール通り39番地。そこには、ほうきやブラシを製造するオットー・ヴァイトの工房があった。工房では、目の見えないユダヤ人や耳の聞こえないユダヤ人が働いていた。

オットー・ヴァイトは、自分のユダヤ人工員をナチスの大量虐殺から救った功労者だった。

その功績を讃え、ベルリン中央駅北の新開発地区にできた広場が、「オット・ヴァイト広場」と命名された。ローゼンタール通り39番地には今、オットー・ヴァイト博物館がある。 (2022年1月22日)

ローザ

ローザ  ローザ  ローザ

今日1月15日は、ドイツ共産党を設立したローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの命日。2人は103年前に、暗殺された。

最初の写真は、ローザ・ルクセンブルクの遺体が投げ捨てられた運河の辺りにある記念碑。3枚目の写真は、カール・リープクネヒトが射殺された池の辺りにある記念碑だ。

2つの記念碑は、数百メートルしか離れていない。

記念碑は、世界感が異なるからといって、人が簡単に殺害されてはならないことを警告している。 (2022年1月15日)

冬

冬  冬  冬

ベルリンは昨日から、少し寒くなっている。それでも、日中は氷点下とはならない。

クリスマスから年末年始にかけ、ベルリンは例年になく暖かかった。日中は、10度近くになることもあった。

そこでちょっと古い写真だが、寒い感じとなるような写真を取り上げてみた。

写真はベルリンではなく、ドイツ北東部のヒッデンゼー島で撮ったもの。

この時は、島までの海が凍っていた。フェリーは、氷雪船が氷を砕いた航路だけを走っていた。 (2022年1月08日)

年賀

年賀  年賀  年賀

あけましておめでとうございます。

本年も、ベルリン@対話工房をよろしくお願いします。

クマのサンタクロースを白虎に衣替えしてみました。白虎とは見えないかもしれません。

でも同じネコ科のタロウは、とても興味を持ってくれました。

タロウが白虎に関心の持ってくれたように、ベルリン@対話工房ではこれからもいろいろ関心を持っていただける記事を届けていきたいと思います。

ベルリン、2022年元旦 (2022年1月01日)

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