クリスティーンとジークマルのところに一通の手紙が届いた。送り主は西ドイツの小さな町にある博物館の館長Aさんだった。Aさんは元々東ドイツにいたが、東西ドイツの間に壁ができる前に西側に移住していた。
二人は長い間、Aさんと東西ドイツで文通していた。手紙は検閲される心配があったので、なかなか本音を書くことができなかった。いいたいことは、行間に匂わせておくのが常だったと、ジークマルはいう。
Aさんの手紙の内容は、こうだった。
自分はもう老いてしまった。今重い病気を患っており、余命いくばくもないであろう。自分のところには、当時東ドイツから持ってきた個人のコレクションがある。フォン・グライヒェン伯爵(12世紀はじめから16世紀中頃に存在したテューリンゲン、ゴータの貴族)の最後の手紙と、フォンターネ(19世紀ドイツの作家)の手紙だ。どちらも直筆のオリジナルだ。
自分が死んでしまっては、オークションにかけられ、とてつもない高価な値段がつくだろう。追っては、自分の故郷である東ドイツに手紙を返したい。
だが、自分にはもうその力はない。何とか手紙を取りにきてくれないだろうか。
クリスティーンとジークマルは思案にくれた。ジークマルは仕事で西ドイツに出たことはある。しかし、ジークマルが西ドイツで手紙を所持していることが見つかると、東べルリンの博物館で働いているのでたいへんなことになる。
そうすると、まだ西ドイツに出たことのないクリスティーンしかいない。クリスティーンにしても、西ドイツで手紙を持っていることがわかると、なぜ東ドイツの一般市民が貴重な古文書を所持しているのかと怪しまれるのではないか。
しかし、クリスティーン以外にはない。危険を覚悟で、クリスティーンが手紙を取りにいくほうがいいということになった。
クリスティーンは管轄の党の支部に一時出国の申請を出した。すると、思いもかけず、すぐに出国が許可された。パスポートもはじめて手にすることができた。
パスポートには、出入国ビザのスタンプが押されている。再入国の期限もはっきりと記入されている。この期限を守らないと、国と家族を捨てて亡命したと見なされ、祖国に残した家族に多大な圧力がかかる。
当時は、家族の誰か一人が西側に一時出国するときは、残りの家族は『人質』として祖国に残らなければならなかった。家族が一緒に西側に出国するというのは、国を捨てて亡命するときだけで、それ以外のときは不可能だった。
1989年2月、クリスティーンは汽車で西ドイツにいるAさんのもとに向かった。行きは問題ないだろう。Aさんを見舞いにいくといえばよかった。
問題は帰りだった。クリスティーンは古文書の手紙を受け取ると、それを腰に巻き付けて隠した。
帰りの道中、クリスティーンは車中で落ち着かなかった。西ドイツの係官にあれこれ質問されたら、どうしよう。古文書が見つかってしまったら、どうしよう。クリスティーンはハラハラ、ドキドキしていた。
それも取り越し苦労だった。クリスティーンは無事に東西ドイツ国境を超え、東ドイツに戻ってくることができた。
はじめての西ドイツだったにも関わらず、クリスティーンには西ドイツにいた記憶がない。手紙のことで頭が一杯で、自分が西ドイツにいるという感覚がなかったのだ。
その後Aさんは、東西ドイツの壁が崩壊することも知らないまま、1989年6月に亡くなってしまった。クリスティーンはこのときも、Aさんの埋葬に参列するため、西ドイツに向かった。
そして今、クリスティーンの持ち帰ったフォン・グライヒェン伯爵の手紙は生地のドータ(ドイツ中東部、テューリンゲン州)の博物館に、フォンターネの手紙はブランデンブルク州の州都ポツダムにあるフォンターネ史料館に収められている。
(2013年7月4日、おすと えいゆ、読売新聞欧州版1993年12月17日初出) |