Q:ノイエス・フォールムは今、どういう活動をしようとしているのか。
たくさんの分野でやらなければならないことがある。何が問題か、今根本的に考える時期にきたと思う。
(統一後)過去3年間で、新しい法体系ができ、新しい経済体制が入ってきた。毎週、毎週、新しいことが入ってくる。
新しい法律ができると、生活に政治的な影響がでる。それに対して、損害を制限しなければならない。
そのためには、物事を根本的に考えなければならない。土地の問題についていったが、土地はどう配分されるべきか、ということについて考えなければならない。
議会制民主主義が入ってきたわけだが、入ってきた(西側の)制度では、小政党が議会で議席を取ることができない。議会内では議員団への縛り付けが強く、議員が独自に判断して決定することができない。
しかし、それでいいのか。そうした問題についても、考えなければならない。
市民の声が国民投票などによって、政治に反映させることも考えなければならない。
さらに、平和の問題だ。
われわれのグループは、ドイツ兵が国外で戦うことに強く反対している数少ないグループだ。統一ドイツが世界の平和を監視する警官のような役目を果たすのではなく、その前にまず軍縮と平和のために義務を果たすべきだと思う。
軍備の禁止、武器輸出などについても考えなければならない。武器を持つとは、暴力をより拡大させることだ、ということを認識しなければならない。
Q:個人的には、これまで起こったことについてどう思っているのか。
89年の秋は革命だった。たいへん短い革命だった。2つのことが、それによって破壊されたと思う。
一つは、東西の壁が崩壊したということだ。もう一つは、西ドイツの影響が大きく、東ドイツ市民の希望が反映されなかったということだ。
(東ドイツの)旧体制の残党に対して、市民がどういう態度を取るのか。民主化運動において、市民がそれに関して不一致だったということもできる。
それらが、現在の状態を招いた結果だと思う。
一つ大切なポイントは、最初から非暴力を望んでいたことだ。そして、それが実現できた。
個人的には、他の市民にとってもそうだと思うが、89年秋から90年春にかけての時期は、人生の一番大切な時期だったと思う。
こういうことは、人生で一度でも経験できればいいことだ。こうした革命、不自由な社会から自由を獲得するということを体験できた世代は、ほとんどいないだろう。
実際に夢見た社会は実現できなかったがね。
Q:個人的に反体制運動に参加したきっかけは何か。
個人的には、表立って反体制派の活動はしていなかった。体制に従わないようにすることで、体制拒否の態度を示していたにすぎない。
最初に反体制的な集会に参加したのは、88年1月で、その後は、(民主化運動のはじまる)89年9月からだ。
机の前に座っているだけではなく、今社会が必要としている(民主化)運動に参加する時期が来たと思ったからだ。
ただ、80年代に出国申請を出して国を捨てようとしたが、後で撤回したことがある。
Q:どうして出国申請を引っ込めたのか。
80年代中頃に、東ドイツ社会は変わらないと考えた市民がたくさん出国申請を出した。
30代半ばにもなると、こんな生活を送っていていいのかと考える。たくさんの市民がこの社会に埋もれてしまっていいのか、と考えてしまった。それで、東ドイツから出るしかないと考えた。
しかし、わたしは考え直さざるを得なかった。東ドイツ社会もダメなら、西ドイツ社会もダメだ。どちらもダメではないかとね。
Q:出国申請を出したことで、当局から圧力を受けたのではないか。
いや、圧力はなかった。多分、フリーとして働いていたからではないか。
後で知ったのだが、警察や秘密警察が、わたしが何をしているのか近所の人たちに聞いていたそうだ。
後で(統一されて)秘密警察の資料を見て知ったのだが、出国申請を出す前から秘密警察に監視されていた。
Q:なぜ監視されていたのか。
資料を読んだ限りでは、わたしが国を捨てて不法出国する疑いがあったからということだ。
Q:テレビなどで見ると、秘密警察の集めた資料はたいへんな量だった。
わたし個人の資料は、わずかだった。人によっては、たくさんの資料が残っていた人もいる。
秘密警察が全能的な存在だということは当時からわかっていたが、これほどまで広く市民を監視していたとは、想像もしていなかった。
Q:莫大な労力とお金がかけられていた。
そうだと思う。多分、世界のどの秘密警察もそうなんだろうと思う。
民主主義の下でも、秘密警察の活動を監視できないことが問題だ。だからわれわれは(ノイエス・フォールムは)、世界のすべての秘密警察を廃止すべきだと思っている。
(1994年、べルリンのカフェでインタビュー) |