2013年10月11日掲載 − HOME − 小さな革命一覧 − インタビュー
民主化運動家セバスチャン・プフルークバイル、インタビュー
Q:今は植民地にいるみたいだと、おっしゃったと聞いています。それはどういうことなのか。

経済的な面からそういっている。古典的な意味でいう植民地には、2つの問題がある。一つは市場能力を確立するということ。もう一つは原料と労働力を安く手に入れるということだ。旧東ドイツでは、この2つのことが可能だった。

問題は、東ドイツではもう一つの問題があったということだ。これは、過去10年間でより顕著になってきた。それは、西ドイツから東ドイツにゴミが『輸出』されているということだ。これは、私にとっては植民地政策以外の何物でもない。


こうした植民地政策によって、たくさんの市民がこのままでは済まないと思った。そう思う市民が集まって、ノイエス・フォルムのアピールが作成された。アピールには、短い間に東ドイツ全体で20万人以上の市民が署名をした。

こうして、ノイエス・フォルムが生まれた。


Q:主なメンバーは何人くらいだったのか。

30人くらいだった。


Q:その時、統一を考えていたのか。

統一など、考えることはできなかった。(冷戦の)戦後体制が維持されていたからだ。短い期間で、ドイツが一つになるとも思っていなかった。連合国がドイツを二つにしたのに、ドイツが再び一つになると、世界の恐怖になるだけだと思った。

全く違う二つの社会体制が、40年間も別々に発展してきた。社会主義の実験が失敗したからといって、すぐに資本主義の実験をすることなど考えることができなかった。そのほうが、統一できない理由としては重大だった。

みんなが望んでいたのは、自分のことを自分で決定できる生活、市民が主権を持つ国家と社会を造ることだった。だから、すぐに統一することには反対していた。

しかし1990年以降、われわれが体験しているのは、二つの同じものが統一されたということではない。強いものが弱いものを支配するということだ。


Q:メンバーの中心になっていたのは、どういう人たちだったのか。

医師から芸術家、幼稚園の先生、労働者など、いろんな市民がいた。でも、インテリが中心だった。


Q:年齢層は、男女の比率はどうだったのか。

男女は半々くらいだった。年齢は、30歳から50歳くらいだった。


Q:社会主義体制になって生まれた人たちということか。

そうだ。社会主義体制ができた時から反体制派だった者は、ほとんどいなかった。


Q:ということは、みんなにとって東ドイツが祖国だった。

祖国ということばは、慎重に使うべきだ。民主化運動に参加した市民は、東ドイツを祖国だとは感じていなかった。地元とか、生活の場と感じていた。

ドイツ人として、祖国ということばは使いたい。でも、それが国家とアイデンティティがあるかということになると、別問題だ。だから、(自分の生まれ育った)母国というなら、そうだ。しかし、祖国ではない。


Q:西ドイツでは、自由があって当然だった。それに対して東ドイツでは、自由がなかった。民主化のプロセスはその自由を獲得するプロセスであったわけだが、そこから統一のプロセスに変わっていった。ノイエス・フォルムのメンバーには、それに批判はなかったのか。

統一のプロセスは、民主的なものでも、自分で決定できるものでもなかった。一方で、東ドイツの政治体制と経済体制は破綻していた。破産といったほうがいいかもしれない。

他方で、西ドイツの政党が旧体制後に生まれたばかりの新しい東ドイツの政治を自分たちの思うようにしようとしていた。

東西ドイツの統一について、(西ドイツの憲法に相当する)基本法は、二つの可能性を規定していた。一つは、東ドイツが西ドイツに加入するということ。もう一つは、二つのドイツが同等に再統一されるのというものだった。

後者では、国民投票によって新しい憲法を作成するとされていた。

結局、強い西ドイツが東ドイツの加入する条件をすべて規定して、統一することになった。ここでいう条件とは、政治から司法、経済、社会まであらゆることすべてだ。何から何まで、西ドイツが統一の条件を決めていったということだ。

東ドイツ市民の願いが、それを可能にしてしまったということもできる。東ドイツ市民が、できるだけ早く西ドイツ市民と同じように生活したいと願っていたからだ。東ドイツ市民は、強い西ドイツマルクを手にできれば、すべてよくなると思っていたのだ。

もちろん、その考えが危険であることは警告した。しかし東ドイツ市民は、それに耳を傾けることができなかった。


Q:いつから警告していたのか。

1990年のはじめ頃からだ。つまり、(壁崩壊後)はじめての自由選挙の選挙運動が開始された時からだ。


Q:結局、その自由選挙でノイエス・フォルムの民主化運動は負けたということか。それは、西ドイツの影響があったからか。

われわれは、西ドイツの政党からの物質的、資金上の支援に対抗できなかった。われわれは、東ドイツでゼロからはじめた。支援してもらえるバックもなかった。


Q:しかし、東ドイツ市民はこうして自由を勝ち取ったのではないのか。

東ドイツ市民は自由を勝ち取った。同時に、われわれは負けたのだ。

われわれは、自由を求めてデモに出た。そうして、1990年7月1日に西ドイツマルクを手にした。経済と通貨の統合だ。実質的には、これが統一だ。

しかし市民はその後に、おかしいと気づきはじめた。パンが5ペニヒから20ペニヒに値上がりした。でも、給料の額は同じだ。統一によって、生活がよくなると信じていた。しかし、まったくよくならない。

ここで、先ほど話した憲法の話に戻りたい。

われわれは壁崩壊後、1989年12月から翌年春まで、円卓会議で東ドイツ政府と新しい国について討議していた。ここでは、新しい国(東ドイツ)の新しい憲法を作成する話をしていたのだ。その草案では、二つのドイツを同等に統一する可能性を設けていた。

新しい東ドイツ。生まれたばかりの民主主義国家が新しい憲法を持って、西ドイツと対等となる。そして、統一を目指すということだった。

しかし、はじめての自由選挙で西ドイツの政党の傀儡となった政党が東ドイツの議会を牛耳り、われわれの願いは物の見事に破壊されてしまった。(東ドイツという)国を消滅させるのに、いまさら憲法は必要ない、というのが彼らのいい分だった。

新しい憲法の草案には、環境保護の権利、人間の平等な権利、男女平等、こどもの平等な権利など、現代の憲法に必要な要素がすべて盛り込まれていた。われわれは、それを市民の中に浸透させようとした。そうして、数十万に及ぶ署名も集めた。

しかし89年の革命期から、国民投票によって新しい憲法を決めるという問題はもう結論が出ていたと思う。当時から、一般市民が求めていたのは、物理的な豊かさだったからだ。


(1994年、べルリンにあるセバスチャンさんの自宅でインタビュー)
記事一覧
この記事をシェア、ブックマークする
このページのトップへ