2020年10月03日掲載 − HOME − 小さな革命一覧 − 記事
管理職は西ドイツ出身者

東西ドイツが統一して30年も経っているのに、東ドイツ出身者と西ドイツ出身者を区別して見るのはどうかと思う。そうした区別はもう止めたほうがいい。


東ドイツ出身だからという語られ方が依然としてあるのは事実だ。だがそれは、東ドイツ出身者に対する差別だと思う。


ここにきて、統一後30年も経ってドイツの経済界、行政機関などで管理職となっている人材のほとんどが西ドイツ出身者であることが問題になっている。


でも、それがどうしてなのか。まだはっきりした分析はされていない。分析しても、はっきりした答えはないと思う。だがここでは敢えて、なぜ東ドイツ出身者が不利になったのか、少し考えて見たい。


今年になって、東ドイツ出身の女性がドイツ憲法裁判所裁判官に任命された。東ドイツ出身者が憲法裁判所裁判官となるのは、統一後はじめてのことだった。憲法裁判所の裁判官は政治に推薦権があるので、こういう職こそ、政治が率先してもっと早くから東ドイツ出身者を採用すべきだった。


これは、政治の怠慢だったといわなければならない。


でも、ぼくは管理職の問題は統一プロセスにあると思っている。


統一とともに、東ドイツでは一夜にしてすべてにおいて西ドイツの制度が導入された。教育制度もだ。


東ドイツでは、10年生までみんな同じ学校で教育を受けていた。それが統一とともに、小学校を終えた段階で、大学進学コースか、手に職をつけるために職業訓練を受けるコースに進学するか選択しなければならなくなる。


これは、生徒たちにとってたいへん大きな変化だったと思う。


東ドイツで取得した大学入学資格や大卒の成績が信用されず、東ドイツの生徒や学生は西ドイツの生徒と学生よりも能力がない、卒業資格がないという先入観で見られたのも事実だ。


ぼくの知人、友人には、そのためにたいへん苦労した者もいる。


アンケは、東ドイツで大学を卒業したが、専攻した学科が西ドイツにないことから大卒とは見なされなかった。アンケは大学に再入学するため、学費を稼ぐ目的で西ドイツで就職することを考える。でも大学入学資格の成績も信用してもらえず、語学試験だけ再試験を受けなければならなかった。


アンケは結局、イギリスの大学に入学。とても優秀な成績で卒業した。


ヴィーラントの場合は、統一直後に東ドイツの大学で修士課程を修了、その後西ドイツの大学で博士課程に進もうと思った。でも東ドイツの修士課程で取得した単位が認められず、西ドイツの大学で博士課程に入るのを断念。オランダの大学で博士号を取得した。


大学でも、東ドイツでは本科1つと副科1つを専攻した。だが、統一後本科2つを専攻しなければならなくなる。そのため、統一時に東ドイツの大学に在籍していた学生は、本科を新たにもう1つ専攻するため、単位を取得し直さなければならなかった。


東ドイツ出身者は、こうして統一による教育制度の変化によって回り道をしなければならなかった。統一によってこうして苦労した人材は、年齢的に見ると、今ちょうど管理職に就いていていい年頃だ。でも、現実にはそうなっていない。


それを見ると、統一による教育制度の変化が、その後のキャリアにおいても大きな障害になった可能性があう。


もう一つの問題は、人のネットワークの問題だ。


東ドイツでは、統一とともに東ドイツ出身の大学教授が西ドイツ出身者に入れ替えられた。それは、行政機関でも同じだった。統一とともに東ドイツにおいて州が設立されるが、その時、州の行政機関を立ち上げるため、西ドイツの各州の官吏が東ドイツの州の行政機関の管理職に送られてきた。


これは、東ドイツにおいて人材のネットワークが西ドイツ出身者の手に握られてしまったことを意味する。これは、東ドイツ出身者がキャリアを積むには、とても不利だったと思われる。


ぼくがここで述べたことは、東ドイツ出身の知人、友人の苦労から分析してみたことだ。知人、友人の体験は、特例ではないと思う。こうしたことが統一後、当然のように起こっていたはずだ。


こうして見ると、今東ドイツ出身の管理者がいないのは、当然の成り行きのように思えるが、どうだろうか。できるだけ早く、こういう記事を書かなくてもいいようになってもらいたい。


(2020年10月03日)
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関連資料:
ドイツ政府の2020年東西ドイツ統一状況報告書(ドイツ語)
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