2018年7月掲載 − 小さな革命 − J・Oのベルリン便り
アッハソー、1999年9月

旧東独出身のサッカー選手がドイツ代表チームに選出されるようになってきた。みんながみんなレギュラーとはいえないが、多いときには旧東独出身の選手が4−5人、フィールド上でプレーしていることがある。


ある時、テレビで代表チームの試合の実況生中継を見ていて、ふと、試合開始前に流れる国歌を斉唱していない選手が何人もいるのに気が付いた。特別斉唱する必要はないのだが、斉唱している選手のほうが多かったので、口の動いていない選手のほうが小生の目に止まっただけのことだった。ただよく見ると、口の動いていない選手は旧東独出身の選手ばかり。ああなるほど、統一ドイツの国歌を知らないのかと、その時は納得はした。


だが、それではドイツでは国歌をどうやって覚えているのだろうか、という疑問が脳裏をよぎった。そこで、小生の友人たちに聞いて見ることにした。


教育が州の管轄であることから州によって多少異なるものの、それからわかったことは、現在、国歌を覚えるため、特別の授業などがないということだ。ほとんどの友人は、国歌を歌うことができないと答えた。ブレーメン出身のアンドレアスは、国歌をはじめて歌うことになったのは兵役義務で入隊した時だったといった。それまでは、学校で国歌を斉唱したことはなく、国旗も学校では見たことがないといった。ただ、国家に不幸があった場合には、学校でも半旗を掲げるようだという。国歌の歌詞は、歴史の教科書が第三帝国について記述している項に載っていただけだという。


さらに、旧東独出身の友人にも、旧東独国歌をどう覚えたか聞いてみた。それによると、小学校の低学年においてドイツ語の授業で歌詞を覚え、メロディーは音楽の授業で勉強したという。ただ、学校で国歌を斉唱したのは卒業式ぐらいで、国旗は学校というよりは、社会の生活の中で接するほうが多かったようだ。


旧東独では、祭日になると、大きな集合住宅の窓が国旗だらけになったのを思い出す。当時、国旗を掲げる、掲げないは『踏み絵』と同じで、国旗を掲げない世帯は反体制派だとして、その後秘密警察から睨まれた。また、ほとんどのオフィスに国旗とホネッカー国家評議会議長の写真が掛けてあった。旧東独では、ドイツ民主共和国憲法第1編第1章第1条、つまり憲法の一番最初の条項が国旗を定義していたことも記しておこう。


テューリンゲン出身のベルントは、強制的に国家によって東独人であることを強く意識させられた時代だった、と当時を回顧する。国旗と国歌が国家の意識化政策の手段となっていたわけだ。それに疑問を持つ市民もいたわけだが、彼等は異分子のレッテルを貼られ、反体制派として監視された。ベルントは国家によるこうした意識化政策に強い圧迫感を感じていたとし、現在のように国家がドイツ人であるという意識を持つことを強制しないのをノーマルな状態だとした。ただ当時、東独人であることを意識させられたばかりに、その分、旧東独市民が現在、統一ドイツにおいてアイデンティティー上大きな問題を抱えている。


2−3年ほど前だったろうか。ヘルツォーク前大統領が南米を訪問したときに、ブラジルだったと記憶するが、ある田舎町で行なわれた大統領歓迎式典で旧東独国歌が流れてしまったことがある。しかしドイツ国内では、それについてとやかくいう者は誰もなく、ドイツのマスコミもご愛敬扱い。とんだハプニングとして紹介していたのを思い出す。たとえがよくない上、話がちょっと跳んでしまうかもしれないが、こうした国歌や国旗、あげくの果てには国家へのこだわりのなさが思想と良心の自由を保証し、他人に対する敬意の念を培う基盤なのではないかと思うが。(J・O)


(1999年9月1日)
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