2018年7月掲載 − 小さな革命 − J・Oのベルリン便り
アッハソー、2001年8月

東西ベルリンの国境が封鎖されたのは今から40年前の8月13日。厳重な警戒体制の下で国境にまず鉄条網が張り巡らされ、東西の往来が遮断された。これがベルリンの壁のはじまりである。当時の書類によると、実際に旧東独政府が「壁」と呼べるものを建設すると決定したのはそれから数日後だという。それから、壁といわれる巨大な国境施設が完成するまでには数年の年月を経ることになる。しかし、それまでの経緯からして1961年8月13日が「ベルリンの壁の建設」の日となる。


あれから40年。現在ベルリンの壁の残骸はほんの一部でしか見ることができない。旧東独市民が特別の許可なくベルリンの壁を通って旧西ベルリンへ出国することが認められたのは1989年11月9日。この日は「ベルリンの壁の崩壊」の日とされる。だから、ベルリンの壁があった位置には「ベルリンの壁、1961ー1989年」と記録が残されている。


しかし、この記録は正確にいうと最初に鉄条網が張られた旧国境の位置にしか施されていない。つまり、旧西ベルリン市民にとっての壁なのだ。旧東ベルリン市民にとって、壁はもっと手前の位置にあった。「壁」と呼ばれた施設は2つの壁が平行に走る遮断施設であったからだ。しかし、壁を「記録」するはずの記録は片側の事実しか残していない。旧東ベルリン市民が実際に目にしていた壁は記録から抹消されたのだ。いまから60年後の2061年、つまりベルリンの壁100周年にこの事実は残っているのだろうか。


ベルリンの壁で最初に犠牲になったとされる人物は、ペーター・フェヒターだと思っている人が多い。1962年8月17日、当時18歳のフェヒターは壁を抜けて旧西ベルリンへ逃れようとした。しかし、国境の兵士に撃たれ、壁の下で50分間助けを求め続けた、という。旧西ベルリンの警官が命の危険を冒してまでフェヒターに包帯を投げ渡そうとした話は美談として語られることになる。以後、フェヒターは最初の壁犠牲者として「スター」扱されるのだ。


しかしベルリンの壁で最初に犠牲になったのは、ギュンター・リトフィンだ。1961年8月24日のことであった。1990年にリトフィンの弟さんなど有志が中心となってリトフィンの記念館を建てようとした。しかしそれは、ベルリン市当局からなかなか認められなかった。数十年語り継がれてきた壁のスター、フェヒター物語が崩れてはならないというのがひとつの理由だと、有志たちは見ている。


1962年5月23日、旧東独の国境兵士ペーター・ゲーリングが旧西ベルリン警官によって射殺された。旧西側の記録では、旧東側兵士と旧西側警官との衝突があった時、旧東側兵士の中でゲーリングだけが発砲を続けたため、射殺したとある。以後、ゲーリングは旧西側では殺人者扱され、旧東側では英雄となる。


しかし中立機関の捜査では、ゲーリングの銃からは一発も発砲されていないことが確認された。ゲーリングの母親は、当時ゲーリングが西側へ逃亡したがっていたといったという。


ここに並べたのは、これまでベルリンの壁に関して記録されてきた「事実」だ。しかしここでは、事実は立場や見方が変れば如何ようにも変貌する様が伺える。問題は、「事実」が誰によって記録されたのかだ。事実が事実として認められるには、立場の異なる見方によっても事実は検証されなければならい。たとえば、加害者と犠牲者がともに検証して両者が納得するということだ。一方的に検証された「事実」は自己の正当化や宣伝行為でしかあるまい。歴史は「事実」によって語られるという。そこに歴史の危うさがある。「事実」の記録に鈍感であってはならない。(J・O)


(2001年8月1日)
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