2018年7月掲載 − 小さな革命 − J・Oのベルリン便り
アッハソー、2004年5月

小生の友人Hさんが突然、10年ぶりにベルリンに現われた。Hさんは約20年間ベルリンで暮らしていたのだが、一身上の都合でベルリンを離れざるを得なくなった。ベルリンといってもほとんどの期間、東ベルリンで生活していたので、Hさんにとってベルリンの変貌ぶりは想像の域を超えていたと思う。特に、東ベルリンの中心部はどこにいっても、浦島太郎の気分であったようだ。ベルリン滞在中は興奮して眠れないし、ベルリンを離れた後も興奮がさめず、一週間ほど眠れない日が続いたという。


最近知り合ったジャズマンのAさんは、ニューヨークに15年ほど不法滞在していた人。5年前に仕事でベルリンに来て、ニューヨークに戻ろうとしたのだが、不法滞在者として再入国を拒否された。それ以来ベルリンで暮らしている。今回は、フリーのミュージシャンとしてビザを取得している。ようやくジャズの仲間ができてきたといっていたが、ベルリンはニューヨークと違う意味でおもしろいと、ベルリンの生活を楽しんでいる。


博士論文を執筆中のKちゃんは、夫のSの仕事の都合で5年ほど前にベルリンからデュッセルドルフに引っ越した。Sはドイツでも有数の一流企業に勤めているが、ベルリンに戻りたくてしようがない。それで、しょっちゅう新聞の求人広告を眺めている。それに対し、Kちゃんはもうベルリンには戻りたくない。ベルリン人の無愛想さにうんざりしていて、デュッセルドルフのほうが快適だという。もちろん、デュッセルドルフ人の愛想の良さは心からのものではなく、作りものであることはわかっているのだが。まあ、前述のAさんの彼女のドイツ人でさえ、ベルリン人の愛想の悪さにはぞーとするといっているほどで、Kちゃんの気持ちはわからないでもない。


音楽学者のBは、教授の職を見つけてベルリンからデトモルトに移っていった。ドイツでは、教授論文を書いた大学では教授になれないからだ。現在はハンブルク音大の教授だが、前々からベルリン芸術大の教授になりたくて、アパートをずーと維持したまま、何かと理由を付けてはベルリンに来ている。


ドイツ文学者のBはドイツの大学で職を見つけられず、米国プリンストン大学の教授になった。それでも、ドイツで教授の職を見つけたくて応募しているが、いまだに見つからない。ただ、米国の大学では休みが長いので、一年のほぼ半分はベルリンで生活できる。夫のPも学者さんだが、パリで歴史学の教授をしている。夫婦別々の生活だが、二人の生活の拠点は依然としてベルリンに残してある。


空手家のAは、今月でベルリンを離れてしまう。ベルリンのような大都会では子供を育てたくないといって、連れ合いのMの祖国であるスウェーデンに引っ越してしまうのだ。それも、住民が数えるほどしかいない自然の真直中へ。それでも、衛星通信でインターネットを使えるので、情報おんちにはならずに済むという。Aは今からもう、近所の農民から譲り受けたロバと一緒に自然を散策するのを楽しみにしている。


ベルリンを巡る人たちの話しでした。(J・O)


(2004年5月1日)
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