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ドェナーケバブ神話、ドェナーケバブのルーツを探る
(2004年2月17日)

ベルリンでもトルコ人の多いクロイツベルク区では、ケバブサロンといわれるスタンドが至るところに見られる。サロンといっても、美容院などではない。店頭には1メートル長もあろうかという円筒状の肉の塊がどーんと吊り下げられているから、すぐに食品店とわかる。円筒状の肉はくるくる廻りながら壁状のコンロで焼かれており、肉は表面が焼けたところから細長いナイフで薄く削き落とされていく。これが、トルコの有名な郷土料理ドェナーケバブだ(本国トルコでは、ドネルケバプか)。ケバブにはいろいろな種類があるが、トルコでは薄く削がれた肉を皿に盛って、ヨーグルトをかけて食べるのが普通だ。


パンに挟んだドェナーケバブ

しかしベルリンでは、ドェナーケバブをパンに挟んで食べる。直径30センチメートル大の円盤型のトルコ・パンを4半分に切って、特製トースターに入れる。パンは上から重しを載せたように暖められる。圧縮されたパンはナイフで切れ目を入れて、パンの口を開けてやる。口の開いたところにヨーグルトソースを塗り、レタスや赤キャベツ、たまねぎ、トマトなどの野菜を無造作にどっと入れる。最後に、円筒状の肉の塊から薄く削がれたドェナーケバブをパンの中に入れて、パンがはち切れんばかりにパンパンになれば出来上がり。これが、ベルリン名物のトルコ風ファースト・フード、ドェナーケバブだ。


ドェナーケバブのスタンドはベルリンだけでも1000店以上あると見られ、ドイツ全国では4000店を超えるという。各スタンドは個人経営だが、スタンドはドイツ全体に広まり、今やファースト・フードの大手マクドナルドでさえ参ったと降参してしまうほど普及している。


厳しいドェナーケバブの規則
ドェナーケバブ製造現場
ドェナーケバブの製造現場から

ドェナーケバブの肉の塊は、牛肉と羊肉の薄切れをこれでもかと長いナイフに刺し重ねていって、その周りをひき肉で塗り固めて出来上がる。最近ではチキンのドェナーケバブも出回っているが、これは偽物だ。牛肉と羊肉以外の肉が混じっておれば、そのドェナーケバブは本物ではない。


80年代にスタンド間の競争が激しくなって、値下げするためにひき肉分を多くした粗悪なドェナーケバブが出回るようになった。ただ、それでは価格競争が泥沼化してドェナーケバブの品質が悪化するばかりなので、ベルリン市はベルリンのトルコ商工会やベルリン精肉組合、その他の関連団体と共同で、ドェナーケバブの品質を規定する規約書を作成した。規約書によると、肉の脂肪分は20%を超えてはならず、ひき肉は全体の60%を上回ってはならない。さらにひき肉は卵と牛乳だけで固め、片栗粉などは使ってはならないことになっている。ドェナーケバブ1個当たりの肉量も最低125グラムと規定されている。細かいところまで規定しているのはいかにもドイツらしいが、これが正真正銘の本物のドェナーケバブ。ベルリンの規定は現在、ドイツ全国で適用されている。


ドェナーケバブのルーツは?

それでは、パンに挟んだドェナーケバブはいつ頃登場したのであろうか。E. ザイデル・ピーレン著「刺した、刺した。ドェナーケバブの由来」によると、ドェナーケバブの第1号店は71年に、クロイツベルク区のアーダルベルト通りとオラニエン通りの角にトルコ人ケル・ビリャルがオープンさせたという。しかしケル・ビリャルが一家を連れて祖国に戻ってしまうと、そこから歩いて10分ほど離れた地下鉄ゲルリッツ駅近くにあるボルケプチというスタンドが第1号店だと主張されるようになった。ただ、ボルケプチは71年10月にオープンしているが、ドェナーケバブを出すようになったのは73年からのようだ。69年にイブラハム・ケイフがポツダム通りに開いたスタンドが第1号店だと主張するトルコ人もおり、この辺はどうも定かではない。第1号店が開店したといわれるアーダルベルト通りとオラニエン通りの角はベルリンでもトルコ人街の中心地で、この辺りは住民の約80%がトルコ人。異国情緒がプンプンと漂っている。


ドェナーケバブ自体は、すでに60年代末に西ベルリンの中心に位置するクネーゼベック通りのレストラン「イスタンブール」のメニューに載っていたといわれる。しかし当時はまだ祖国と同じように、皿に盛って出されていたという。それでは、どうしてドェナーケバブはパンに挟んで食べるようになったのか。一説によると、ベルリン名物のカレー・ソーセージ(一口大に刻んだ焼ソーセージにそれが見えなくなるほど大量のケチャップをかけて、その上にカレー粉を振り掛けたファースト・フード)がスタンドで売られていたので、トルコ人がそれにヒントを得てドェナーケバブをスタンドで販売できように工夫したからだという。しかし、この説はどうもドイツ中心主義的な匂いがしてうさん臭い。いずれにせよ、いろんな説があればあるほど、ドェナーケバブの発祥は神話化されていくといってもいいのではないか。


トルコ人移民の過程を反映するドェナーケバブ

トルコ人移民の歴史を辿ると、ドェナーケバブの誕生がトルコ人がドイツに移住する過程と切っても切り離せない関係にあることがわかる。トルコ人は60年代前半からガストアルバイタとしてドイツに入国しはじめた。その後、トルコ人は厳しい労働条件に耐えきれずに企業を飛び出したり、第1次石油ショックの影響で真っ先に解雇されたりした。トルコ人の一部は祖国に帰らずにドイツに残っており、彼等は異国で経済的基盤を確立する手段を見つけなければならなくなる。そのひとつの手段がドイツ語で「インビス」と呼ばれるファースト・フードのスタンドだったのだ。資本はそれほど必要なく、面倒な手続きもないことから、一番手っ取り早かったということだ。インビスといえばドイツではソーセージが想像されるが、トルコ人たちはソーセージではなく、郷土料理のドェナーケバブをパンに挟んで大きなサンドウィッチとして売り出した。これが、ベルリン生まれのドェナーケバブなのだ。70年代はじめにドェナーケバブの1号店がオープンしているというのも、滞在ビザの規定からすると、60年代前半に入国したトルコ人が滞在許可条件の束縛から解放されて自由に職場を選択したり、独立できるようになった時期と一致する。


ドイツでもトルコ人が一番多いベルリンで生まれたファースト・フードのドェナーケバブ。その後、ドェナーケバブは西ドイツにも広がってドイツ社会に定着するようになった。しかし、一番の転機は東西ドイツ統一である。トルコ人は外食産業のない東部ドイツに怒濤の如く進出し、ドェナーケバブはドイツ最大のファースト・フード産業にまで成長する。ただ、ドェナーケバブはまだ家族で朝早くから夜遅くまで汗水たらして働かなければならない厳しい商売。スタンド毎の価格競争も激しく、個人個人の利害関係が絡んで業界としてはまとまっていない。欧州ドェナーケバブ製造業者連合会というのがベルリンにあるので訪ねたことがあるが、連合会のバスブク会長は、ドェナーケバブの成功はトルコ人の誇りであり、今後は業界がまとまって健康な産業にまで発展させていかなければならないと抱負を語ってくれた。


こうして見ると、ドェナーケバブ発展の歴史はドイツ史の一部を語っているといっても過言ではない。折しも、今年のベルリン映画祭ではトルコ系ドイツ人映画監督ファーティフ・アキンの「壁に向かって」が金熊賞を受賞した。出演者はトルコ系の俳優ばかりで、若い世代のトルコ系ドイツ人の愛の物語をエロチックに描いた作品だ。アキン監督はテレビニュースのインタビューで、この映画はドイツ映画というべきか、トルコ映画というべきかと質問されて、すぐにドイツ映画だと答えている。それでは、パンに挟んで食べるドェナーケバブは何料理というべきなのか。


もちろん、ドイツ料理である。(fm)


(2004年2月17日)
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