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国家、国旗、国歌
(2004年10月21日)
ドイツ国旗

10月7日は、ドイツ民主共和国の建国記念日。巨大な団地街にいくと、四方八方国旗だらけ。何とも言えない壮大な景色だった。集合住宅のほとんどの窓から国旗が出されていたのだ。旗日に国旗を掲げる、掲げないは、国歌に対する忠誠心を示す『踏み絵』と同じだった。国旗を掲げない者は反体制派のレッテルを貼られ、秘密警察から要注意人物として睨まれた。一般市民の中には、秘密警察の手先として、こうした反体制派を秘密警察に密告する役目を担っていた者もいた。だから、みんな競うように国旗を掲げたのだ。


これは、現在のドイツの話ではない。社会主義体制下での旧東独での話しだ。当時は、ドイツ民主共和国憲法の第1編第1章第1条で国旗が定義されていた。官民を問わず、オフィスに入ると、すぐに国旗と国家元首ホーネッカー議長の写真が目に入ったものだった。


ただ国旗と国歌は、教育の場においてはそれほど強制されていなかったようだ。旧東独出身の友人に聞いてみたところ、小学校低学年の時にドイツ語の授業で国歌の歌詞を覚え、メロディーは音楽の授業で習った、という。ただ、学校の式典で国歌を斉唱したのはせいぜい卒業式ぐらいで、国旗も学校で掲揚されるよりは、一般社会の中で国旗に接するほうが多かった、という。


テューリンゲン地方出身のベルントさんは、壁が崩壊する少し前に家族と一緒に西側に逃亡し、現在西ベルリンに居をかまえている。ベルントさんは当時のことを振り返って、強制的に国家によって東独人であることを強く意識させられた時代だった、と語る。国旗と国歌が国家を意識化させ、国家に忠誠を誓わせる手段となっていたわけだ。それに疑問を持つ市民もいたのだが、こうした市民は異分子のレッテルを貼られ、反体制派として監視された。ベルントさんはこうした国家による強制的な意識化政策と管理・監視体制に強い圧迫感を感じていたとし、現在のように国家がドイツ人であるという意識を持つことを強制しないのを普通の状態だ、と述べた。ただ、当時東独人であることを意識させられたばかりに、統一後の現在、旧東独市民の中にアイデンティティー上の問題を抱えている者がたくさんいるのではないか、とも指摘した。


旧西独では、どうだったのであろうか。


ブレーメン出身のアンドレアスさんは、はじめて国歌を歌う羽目になったのは兵役義務で入隊した時だった、といった。それまでは、学校で国歌を斉唱したことはなく、国旗も学校では見たことがなかった。ただ、国家に不幸があった場合は、学校でも半旗を掲げるようだとも。国歌については、歴史の教科書の第三帝国の項に歌詞が載っていただけだ、という。ただ保守的なバイエルン州では、少し状況が違うかもしれない、と付け加えてくれた。


ドイツ国歌は、ドイツ革命前の1848年にホフマン・ファラースレーベンがハイドンのメロディに作詞した「ドイツ人の歌」という歌で、第一次大戦直後に、ヴァイマール共和国の初代大統領エーベルトが「ドイツ人の歌」を国歌にすると宣言したことに由来する。第二次大戦後の52年、当時のホイス大統領とアーデナウアー首相との手紙のやりとりで、「ドイツ人の歌」をドイツ連邦共和国(旧西独)の国歌とすることにし、アーデナウアー首相の提唱で国家の式典ではその第三番だけを斉唱することになった。第三番に、「協調、権利、自由」という戦後ドイツの目指すことばがあったからだ。東西ドイツ統一後は、91年に、当時のヴァイツゼッカー大統領とコール首相が「ドイツ人の歌」を国歌とする伝統を統一ドイツでも継承するとして、その第三番が国歌であることが確認された。


国旗については、憲法に相当する基本法第II章第22条が、「連邦国旗は、黒赤金である」と規定している。しかし国歌については、国歌を規定する条文はない。基本法の最終ページに、「ドイツ国歌」という見出しを付けて、国歌の成立ちが説明されているにすぎない。


一度ドイツ人の友だちに、国歌を歌えるかと聞いたことがある。友人たちのほとんどは、ちゃんと覚えていないので歌えない、と答えた。アンドレアスさんの話からすると、州によって多少異なるものの、教育の場で国歌を覚える機会がないようなので、友人たちが歌えないというのはもっともなことだと思う。


7、8年ほど前だったろうか。ヘルツォーク元大統領が南米を訪問した時に、確かブラジルだったと記憶するが、ある田舎町で行なわれた大統領歓迎式典で旧東独国歌が流れてしまったことがある。しかし、ドイツ国内でそれについて誰もとやかくいうものはなく、ドイツのマスコミもご愛敬扱い、とんだハプニングとして紹介していたのを思い出す。特別ドイツの態度をほめるつもりはない。しかし、こうした国家や国歌へのこだわりの無さは、良心と思想の自由を保障するとともに、他人や他国に対する敬意の念を養う基盤になっているのではないだろうか。


94年に日本で開催された長野オリンピック。異国の地からテレビで見る開会式の模様は、非常に懐かしかった。しかしそれは、祖国に対する郷愁からではない。こともあろうか、ああ、これは社会主義だ、と思ったのだ。筆者は5年半ほど東独で働いていたが、テレビの画像を見て、社会主義体制の匂いを嗅ぎとったのだった。もちろん、日本は社会主義国家ではない。筆者が感じ取ったのは、管理・監視体制の匂いだったのだと思う。


その後日本では、99年に国旗・国歌法が制定された。最近の報道を見る限り、それによって管理・監視体制がより強化されているようだ。社会主義体制の匂いがより強くなったということらしい。


ちなみに筆者は、日本の国歌をもう忘れてしまった。さくら、さくら。。。だったかな。(fm)


(2004年10月21日)
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