2020年3月23日掲載 − ぶらぼー!
カストラートの権力者

グルックのオペラ〈オルフェオとエウリディーチェ〉のオルフェオ役が、カウンターテノールでなければならないのは、前回述べた。そのほうが、失った妻を思うオルフェオの気持ちが素直に表現できると思うからだ。


それとは異なり、強いはずの権力者が、女性声のカストラートやカウンターテノールとなっている場合もある。


その代表役として、たとえばヘンデルの〈エジプトのジュリアス・シーザー〉におけるローマの将軍シーザー。モンテヴェルディの〈ポッペアの戴冠〉におけるローマ皇帝ネローネ(暴君ネロ)もそうだ。


シーザー役は、バリトンの男性歌手が歌うこともある。ネロ役は、ソプラノの女性歌手やテノールの男性歌手が歌うこともある。


でも、いずれの役もカウンターテノールのはまり役だと思う。元々の楽譜にも、シーザー役はメゾソプラノカストラート、ネロ役はソプラノカストラートと指示されている。


ここで疑問になるのは、なぜシーザーもネロも、カストラートやカウンターテノールの役なのかということだ。


この二つの役には、共通している点がある。


話の筋からすると、シーザーはクレオパトラが王となるために利用されている。ネロはポッペアが本妻になることに利用されている。


それぞれ二人の間に、愛がなかったわけではない。クレオパトラは第2幕第1場においてアリア「優しい瞳をたたえ」で、シーザーに対する熱い思いを歌う。このアリアを聞くと、シーザーでなくても命を賭けてでもクレオパトラのために戦うぞと思ってしまう。


〈ポッペアの戴冠〉では、最後にネロとポッペアがデュエットで二人の愛を確認し合う。二人が愛に包まれて、昇天してしまうのではないかと思うくらいだ。


でも結果として、シーザーもネロも二人の女性が欲望を達成するための手段になっているのは否定できない。


だから、シーザーは弱い戦士であり、ネロは弱い皇帝としてカストラートやカウンターテノールの女性のような声でないといけないのか。


女性が強くて賢いのは、どの時代も同じ。シーザーはクレオパトラの、ネロはポッペアの盛り立て役である。ヘンデルもモンテヴェルディも、そのためにシーザーとネロをカストラートとしたのか。


クレオパトラとポッペアは策略家として、シーザーとネロはそれに騙される役として演出されることが多いのも事実だ。でもそれは、現代からの読み方にすぎないように思う。


ぼくはむしろ、シーザーもネロも男女の枠組みも、権力の枠組みも超えた愛の存在なのではないかと思う。クレオパトラやポッペアの策略はわかっている。でもそれを許そう、愛を追求しようということなのだ。


そういう枠組みを超えた存在として、男性なのに女性のような声を出すカストラートとなっているではないかと思えてならない。


こういう愛は強いのだ。


(2020年3月23日)
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関連サイト:
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