「恐れることはもう何もない、恐れることはもう何もない」と、自分たちに言い聞かせるように何度も繰り返しながら、登場人物たちが舞台を去っていく。すると少し間を置いて、会場ではブーイングとブラボーが嵐のように吹き荒れた。これが、コーミッシェ・オーパーで行われたヘンデルのオペラ〈オレスト〉の結末だ。
ヘンデルのオペラ〈オレスト〉は、古代ギリシアの詩人エウリピデスの『タウリスのイーピゲネイア』を題材としている。母を殺して逃亡する弟オレストをタウリス島でアルテミス神に仕えるイフィゲーニエが殺さなければならなくなる話だ。ゲーテはそれを戯曲『タウリス島のイフィゲーニエ』で、イフィゲーニエが人間的なやさしさによって弟の罪悪を救うという人道的な物語とした。それに対してヘンデルの〈オレスト〉では、タウリス王トアスがみんなに殺害されてしまう。
ヘンデルはこの物語を、ヘンデル自身が作曲した過去のオペラ作品のアリアのヒットナンバーを新たに作曲したレチタティーヴォでつなぎ合わせるという形で構成した。それにもかかわらず、音楽は人間の罪悪と葛藤が交錯するドラマをダイナミックに描き出しているといっていい。
ところが、ドイツの若手演出家セバスティアン・バウムガルテンはこの物語を、旧ソ連領クリミア半島で共産主義が崩壊する話に摩り替えてしまう。共産主義の首長トアスをみんなで殺害して自由を獲得するという筋書きなのだ。舞台奥のスクリーンには、共産主義の象徴ともいうべき四角いだけの傷んだ建物の写真が写し出される。舞台上には、当時を思わせる簡素なドアと机がある。後は、ビデオのスクリーンとなったり、監獄となったりする簡素なボックスがあるだけだ。
しかし、共産主義からの民主化物語は表面上の話の筋でしかなく、本質ではないことがわかってくる。オレストは自分の罪に苦しみ、感情の起伏が激しい。オレストの友ピュラデスは捉えられて、監獄の中で死に怯え苦しんでいる。イフィゲーニエはオレストが自分の弟だとわかっても、大きな喜びさえ示さない。舞台上のドアがバタンと大きな音を立てて閉められたり、場面の合間に入るキーという電子音が心の緊張と無力感を象徴する。登場人物たちはこうして、トラウマや恐怖の場に陥っていく。
だがそのうちに、彼らの精神状態は共産主義の抑圧によるものではなく、自分自身で設定しているもので、出口のないものなのだと感じさせられてくる。場面毎の舞台セッティングやビデオ録画用の場面の設定が登場人物によって行われるからだ。そしてトアスは、 突如として大きな段ボールの中に入れられ、みんなに刺し殺されてしまう。彼らはトアスを殺害することで、自分自身を解放しようとしたのだった。トアスを殺害に導く力は、共産主義から脱出したいという自由への追求ではなく、人間の内にある罪悪感との葛藤やトラウマ、社会に対する恐怖心だったのではないか。
バウムガルテンはおそらく、共産主義からの解放と人間の内面からの解放を二重写しにすることによって、ヘンデルの〈オレスト〉という題材を舞台上の出来事と結び付けたのではないかと思う。クリミア半島を舞台としたのは、そうした意味での異化だったのだ。
ただバウムガルテンの舞台には、希望は見つけられない。だから、舞台上にはきれいなものはない。舞台奥では楽団員が黒い普段着で演奏している。きれいだなと感じさせられるのは、カモメが海岸線を飛ぶシーンが白黒でスクリーン上に流される場面だ。しかしこれも、カモメの数が増えてくるにしたがって、内面のどろどろした風景が写し出されているように感じられてくる。
こうした舞台上の異様な状態に対して、指揮のヘンゲルブロックは、音楽にテンポを持たせてよりダイナミックに演奏することで応える。美しいメロディでも、ロマンチックになりすぎない。そしてバロック音楽の香りを抱かせながらも、バロック音楽の中にあるモダンさを露呈させていく。レチタティーヴォがアコーディオンとバラライカで伴奏されるのは、地域色を生み出すためか。
オーケストラを舞台の一番奥に置いて、歌手が観客席に一番近いところで歌う構造になっていることから、ダイナミックなアリアがより迫力満点 に伝わってくる。特にイフィゲーニエ役のマリア・ベンクトソンとオレスト役のシャルロッテ・ヘレカント)の生き生きとした熱演ぶりが光っていた。
バウムガルテンの試みでは、最終的に二重の意味で登場人物たちが解放される。だから、絶望もないのだといえる。だが、登場人物たちは「恐れること」から解放されて永遠の安心感を獲得できただろうか。
ふくもとまさお
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