2019年3月14日掲載 − ブラボー!
指揮者フィリップ・オーギャンに聞く

f:小澤征爾さんの(病気で)代役として日本(ウィーン国立歌劇場公演)でヴェルディの〈オテロ〉を指揮されますが、オファーがあった時、まずどう思われましたか?


a:自分に時間があるかな、出演する歌手、演出家は知っているかな、それからリハーサルにどれだけ時間があるかな、と考えました。与えられた時間で何ができるかとも。たいへん光栄なお話で、〈オテロ〉の芸術性を日本でお伝えできるのをたいへんうれしく思いました。


日本人の音楽家もたくさん知っていますので、彼らの故郷がどういう国なのか知ることができるのを楽しみにしています。でも、皇居の庭園でのんびりと日本を満喫しようということではありませんよ。


f:指揮されている作品の幅が広いですね。


a:作品の中に込められている感情は、公演中には指揮者を通して外に表現されると思うのです。たとえばオペラの場合、公演がはじまると演出家はもう何もできません。


作品には、当時の自然の風景や時代背景、人間のドラマや社会など、人間のあらゆるものが込められています。そこにはたとえば、ヴェルディの“故郷”がある。でもその“故郷”は、ヴェルディが音符をひとつ変えたり、ことばの選択を変えるだけで、まったく様相の違うものになってしまいます。


それを21世紀の現在でも、作品の中で体験して解釈する。これは、指揮者の特権です。ですから、できるだけたくさんの作品、違う国の作曲家を理解して、それぞれ違う世界の中に入っていきたいのです。


f:そうすると、ことばがたいへんたいせつになりますね。


a:特に、ヴェルディとヴァーグナーではそうですね。たとえば〈オテロ〉でイアーゴが、カッシオが寝言でデスデモナへの愛を呟いていたと夢の歌を歌う場面があります。ここは、拍子からいうと子守唄なんです。でも、ことばの数は拍子の数とは合わず、子守唄にはならない。つまりここでは、ドラマの二面性が示されているのです。これを信じるか、信じないかで、ドラマは違う方向にいくぞとね。


f:オテロにはどんな人間像を持っていらっしゃいますか?


a:ヴェルディはあらゆる人間を愛していたと思います。だから、オテロは狂っているわけでもなく、決して悪い人間ではない。ただ、理想に走った英雄なのです。それも、たいへん辛い過去を体験した。だから、デスデモナの中にこの上ない夢を見た。デスデモナは美化されている面もありますが、ヴェルディの音楽からすると、オテロがイアーゴを信じるなどということはあり得ないのです。


ヴェルディは最後に、オテロにデスデモナにキスをさせようとしています。自分が求めた夢であると同時に、自分が破壊した夢。そこには、愛と悲劇の両方を抱いて死んでいく人間像があると思います。


f:デスデモナには?


a:ヴェルディは人生の最後に、女性の理想像を描こうとしたのではないでしょうか。デスデモナは天使であって、永遠性が示されている。


f:オテロの立場だったら、やはり妻であるデスデモナを殺してしまいますか?


a:とんでもない。ニュルンベルクで音楽監督をしていますが、わたしは将軍ではありません。権力欲というのは、劣等感を補う心の動きです。オテロの悲劇は、権力欲のある権力者だったということです。だから、自分の部下がうそをつくなど、考えてはいけなかった。


f:小澤征爾さんへ何かメッセージがありますか?


a:早くお元気になられて、わたしたちにすばらしい音楽を聞かせていただきたいと思います。


f:日本のオペラファンへは?


a:わたしは自分を通して作品を解釈し、それを日本のみなさんにお伝えしたいと思っています。そして、みなさんを〈オテロ〉という人間の内面の旅へお連れしたい。こうしたわたしの姿勢が日本のみなさんに気に入ってもらえることを願っています。


聞き手:ふくもとまさお

(Classic Japan 2006年3月掲載)
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