2019年3月20日掲載 − HOME − ぶらぼー! − オペラ公演
ハンブルクの”指輪”、ジークフリート

第1幕の幕がゆっくり上がると、舞台一杯に巨大な衛星が姿を現わした。衛星の表面にはクレーターも見えるので、月ではないかと思われる。しかし、これが何なのかは最後まで謎のままで終わり、逆に、解釈されるのを拒否しているかのようだ。


ハンブルクの『ジークフリート』はこうはじまった。4月に読響の常任に就任したアルブレヒトが古巣で再び”指環”を振るというのでハンブルクまで足を運んだ。


光を落として神秘的に造形された舞台。巨大な衛星を背後にしたアルベリヒ(ギュンター・フォン・カンネン)の姿が見える。舞台の奥にはさすらい人(アルフレード・ムフ)がいるらしい。アルベリヒの視線が帽子をかぶった黒い人影に向けられている。


すると、舞台の上から黒い壁がゆっくり降りてきて、森の中の岩屋の場となった。壁が舞台の真ん前にあるため、強烈な圧迫感がある。


『ジークフリート』では、この第1幕が一番演出しにくい。


案の定、舞台は少し退屈となった。しかし、ジークフリート役のヴォルフガング・シュミットが伸び伸びと歌っている。音楽がゆっくりとしたところで以外と早いテンポで展開し、逆に早いテンポの場面ではゆったりと余裕がある。


ジークフリートやミーメ(トーマス・ハルパー)が、テンポが早くても、ことばをはっきりと歌い上げることができるように配慮されている。指揮のアルブレヒトが音楽とことばの両方を大切にして、歌手に伸び伸び歌える環境を整えているのだ。ここに、アルブレヒトの緻密な計算が伺える。


びっくりさせられたのは第2幕。


舞台は、一転して緑一色となった。大蛇は中国の大蛇祭か何かで見られるようなもので、とても怖いとは思われない。女性のエキストラに支えられてゆっくりとからだを動かす大蛇の姿は何ともいえない神秘さをかもし出す。


ここで、演出家ギュンター・クレーマーはハッと思わせるアイディアを出してきた。鳥の声が人間の姿で舞台に登場してしまうのだ。緑の衣装に包まれた鳥の声(ヘレン・クウォン)が小走りに舞台を動き回ると、ジークフリートは鳥を追っかけて舞台上を駆けずり回る。舞台は非常に甘い雰囲気に包まれ、鳥の声の音楽とぴったりマッチした。最後は、小鳥に囲まれたジークフリートが甘い夢でも見るかのように寝入ってしまい、ジークフリートの幼さが見事に表現された。


しかし、ジークフリートには第3幕ではじめて女性の姿を見せるべきではないか、との疑問が残る。


第3幕は白と黒だけの舞台。


さすらい人がエルダ(コルネリア・ヴゥルコップ)を呼び出す場面は、ほとんど色もなく真っ暗。ブリュンヒルデ(ガブリエーレ・シュナウト)が眠るワルキューレの岩山は、一転して真っ白となった。舞台全面に薄い透明な白幕が張られており、ジークフリートがノートゥングで幕を破って岩山に入っていく。舞台の後ろには白い光で輝く大きな満月が見える。


目を覚ましたブリュンヒルデとジークフリート。二人は手に手をとって愛と幸福の歌を歌い上げ、束縛から脱するかのように白幕を破りはじめた。シュナウトの声の調子がいまひとつだが、白一色と光だけで造形された舞台(舞台美術:アンドレアス・ラインハルト)は、神秘的な自然の美しさをひしひしと感じさせてくれる。


クレーマーはここで、本来”指環”に秘められているはずの自然を再発見しているのではないか。ハリー・クプファーのように、現代社会の問題を”指環”によってメタファーとして捕えようとするこれまでの演出ではまったく忘れられてしまっていた解釈だ。


ハンブルクでは、アヒム・フライアー演出の『魔笛』やハリー・クプファー演出の『タンホイザー』、ペーター・コンヴィチュニー演出の『ローエングリン』など、他のオペラ劇場では見られない特異な演出があり、こういう実験を試みることのできる自由さがハンブルク・オペラの良さともなっている。


会場は一瞬シーンと静まり返るが、すぐにブラーボーの嵐に包まれ、興奮の渦と化した。


(ハンブルク、98年5月27日)

ワーグナー作曲『ジークフリート』(『ニーベルンゲンの指環』第二夜)
ハンブルク州オペラ、98年5月27日公演
指揮:ゲルト・アルブレヒト
舞台美術:アンドレアス・ラインハルト
ジークフリート:ヴォルフガング・シュミット
ミーメ:トーマス・ハルパー
さすらい人:アルフレード・ムフ
アルベリヒ:ギュンター・フォン・カンネン
ファフナー:サイモン・ヤング
エルダ:コルネリア・ヴゥルコップ
ブリュンヒルデ:ガビリエーレ・シュナウト
鳥の声:ヘレン・クウォン
(プレミエ:93年3月14日)

(読響オーケストラ1998年6月号掲載)
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