2019年3月12日掲載 − ブラボー!
ロリン・マゼール追悼

クラウディオ・アバドが亡くなって6カ月経った。そして今、アバドの後を追うかのようにロリン・マゼールが逝ってしまった。


2人は25年前の1989年、カラヤンの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督のポストを争った間柄だった。マゼールは1950年代半ばから頻繁にベルリン・フィルを指揮、前年88年にはベルリン・フィルとワーグナーの『ニーベルングの指輪』を管弦楽用に編曲 した『言葉のない指輪』をレコーディングしたばかりだった。それだけに、マゼールの期待も大きかった。


マゼール自身も自分が選ばれると思っていたという。しかし、恋いこがれたオーケストラはカラヤンの後任にアバドを選ぶ。失望したマゼールは後任決定後すぐに、すでに決まっていたベルリン・フィルとのコンサートをすべてキャンセルする。マゼールは、ベルリン・フィルと絶交したのだった。


オーケストラから引き出すタイプのアバドと、音符一つ一つを細かく指示して自分の音楽を完璧に浸透させようとする権威派タイプのマゼール。マゼールが選ばれたら、第二のカラヤンにしかなれなかったのではないだろうか。


マゼールがベルリン・フィルに復帰するのは、あれから10年後の1998年になってから。その後2000年まで毎年指揮したものの、再びプログラムに載らなくなる。マゼールは今年6月、14年ぶりにベルリン・フィルを指揮する予定だった。しかし、それも健康上の理由からキャンセルせざるを得なかった。


10歳前から指揮者としての才能を認められたマゼールは「神童」といわれていた。その神童は20代前半、イタリアをはじめにしてヨーロッパに上陸する。20代半ばでベルリン・フィルデビューも果す。マゼールがドイツで活躍する基点になったのは、バイロイト音楽祭ではないかと思う。


マゼールは30歳で、1960年に『ローエングリン』で最年少デビュー。米国人指揮者として、はじめてバイロイトで指揮することになる。その後、カール・ベーム、オトマール・スウィトナーの後を継いで、1968年と69年に『ニーベルングの指輪』を指揮した。演出は、いずれもヴィーラント・ワーグナー。


バイロイトでのデビュー後、1964年にフェレンツ・フリッチャイの後任としてベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)の首席指揮者に就任。さらに一年後の1965年には、ベルリン・ドイツオペラの音楽監督にも就任した。


これは、マゼールがまだ30代半ばの若さにも関わらず、すでに交響曲とオペラに幅広いレパートリーを持っていたということだ。この時期マゼールは、衝撃的なワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を指揮している。この『トリスタンとイゾルデ』を持って、1963年にベルリン・ドイツオペラとともに訪日。『トリスタンとイゾルデ』は日本初演だった。この時期には、単に定番のレパートリーだけではなく20世紀のオペラにも関心を示し、ルイジ・ダラピコラのオペラ『ウリッセ』を初演した。


マゼールはベルリン放送響の首席を1975年まで、ベルリン・ドイツオペラの音楽監督を1971年まで勤めた。この時期ベルリン(当時は西ベルリン)は、カラヤンのベルリン・フィルでカラヤン色が強くなる一方だった。


だがマゼールの存在は、ベルリンをカラヤン一人だけではない、ユニバーサルな世界の音楽拠点の一つへと成長させていく。このベルリン時代は、マゼール自身にとってもその緻密な指揮ぶりに磨きがかかり、マゼールの音楽がより完璧さを増していく時期だったと思う。


マゼールが西ベルリンにいた時代は、 冷戦化が加速する時代だった。1961年にベルリンの壁ができ、東西ベルリンが分断される。その冷戦の緊迫の最前線にいたマゼール。それだけに1989年11月ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結した時に、マゼールに思うところがあったに違いない。


マゼールはベルリンの壁が崩壊した翌年7月、ベルリンの壁のあったポツダム広場近くの敷地内に東西ベルリンのオーケストラと合唱団13団体を集めて、マーラーの交響曲第二番『復活』を指揮した。この時マゼールは、まぶしいくらいの真っ白のタキシードを着ている。政治的な発言がほとんどないマゼールだが、この時だけはマゼールの政治的メッセージが爆発したといっていい。


ベルリン・フィルで挫折したマゼールは1993年、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任した。マゼールは絶交したベルリン・フィルに対抗するかのように、勢力的に活動を続ける。バイエルン放送響とともにベートーヴェン、ブラームス、マーラー、シューベルトなどの交響曲全曲をチクルス形式で演奏した。


バイエルン放送響の首席は2002年までで 、その後は作曲とバイオリンの演奏に費やしたいとしていた。しかしその直後にニューヨーク・フィル音楽監督に就任、ドイツの音楽ファンを驚かせた。


以外だったのは、2012年にクリスティアン・ティーレマンの後任としてミュンヒェン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任したことだ。3年契約とはいえ、82歳の高齢で首席指揮者となるのは、マゼールの歳を超越した貪欲さを感じざるを得ない。


一方で2013年5月には、地元サッカーチーム「バイエルン・ミュンヒェン」が欧州チャンピオンズリーグの決勝に出る前にチームのユニホームを着て応援歌を指揮するなど、茶目っ気も見せた。しかし、マゼールは任期を全うできなくなる。体調不良で、亡くなる1カ月前に首席辞任を発表した。


晩年マゼールとゆかりの深いミュンヒェン。


7月21日、ミュンヒェン・フィルとバイエルン放送響が合同追悼コンサートを行った。指揮は、すでに2015年のシーズンからマゼールの後任としてミュンヒェン・フィルの首席になることが決まっていたヴァレリー・ゲルギエフ。ブラームスの『ドイツ・レクイエム』が演奏された。


ふくもとまさお

(音楽の友2014年9月号に掲載)
記事一覧へ
この記事をシェア、ブックマークする
このページのトップへ