Q:民主化後、原発の状況を知って驚いたか
安全性に疑問を持っていたが、閉鎖決定でそれが認められた形になった。
閉鎖が決まった要因はいくつもあるが、特に安全制御システムが不十分だった。電気系統に、十分な冗長性がなかった。防火対策も十分どころか、何ら対策が講じられていなかった。
Q:民主化後、そうした情報が公開されたのか
いくつかの委員会で、原発の状況が分析された。
一つが、民主化後にできた円卓会議。そこで、安全性などが審議された。
IAEA(国際原子力機関)なども審査した。
しかし、委員会毎で違う結論が出た。改造可能という結論と、改造は無理という結論があった。
現在、改造しても十分な安全性を確保できなかったことがわかっている。
Q:その後、原発職員、周辺住民に健康障害があったことがわかったのか
それまで十分な調査が行われていなかったことが、わかっただけだ。
その後の調査で、原発に隣接する村でガンの発生率が高くなっていることがわかった。原発職員の中にも、高線量で被曝している人がいることがわかった。
ただ全体として、周辺地域の汚染度が低いこともわかった。
(1986年の)チェルノブイリ原発事故の影響については、この地域では運良く雨が降らなかったので、それほど影響がなかったこともわかった。
Q:95年に廃炉工事がはじまったわけだが、使用済み燃料などは原発内に残ったままだ
当初、使用済み燃料はすべてソ連に返還されていた。最後の数年間は、原発内のプールに貯蔵されていたが、ひどい状態だった。
民主化後、貯蔵プールはすぐに閉鎖された。だが、その後どうするのか、議論しなければならなかった。
すぐに解体するのか、安全に密封するのか。
最終的に、すぐに解体処理することが決まった。その代わりに、現場に中間貯蔵施設を設置することが決まった。
使用済み燃料をキャスクに入れて(乾式)中間貯蔵するというのは、意味のある対策だった。
解体されたものは、小さく切断して除染された。測定後、低中レベル放射性廃棄物は中間貯蔵施設で保管され、基準値以下のものは産業界で再利用されている。
Q:当時、民主化前はどういう反対運動をしていたのか
教会で集まって議論するくらいで、公道で抗議活動することはタブーだった。
原発にいくこともできなかった。原発に近づくだけでも、身分証明書の提示を求められた。90年はじめまで、そういう状況だった。
89年の民主化活動を契機に、たくさんの人がデモをするようになり、原発問題でもたくさんの講演ができるようになった。
そうして、(東ドイツ)市民ははじめて原発問題に接することになった。代替エネルギーについても議論した。核融合の問題についてもたくさん議論した(グライフスヴァルトには、統一後核融合実験装置が設置された)。
Q:民主化後、ここでも市民が原発問題に目を向けるようになったといえるのか
たくさんの人が、原発を批判的に見るようになった。
最初は、催し物を開くのに(西ドイツの)エコ研究所や、その他ベルリンなどからサポートを受けるようになった。
デモを組織する方法や、横断幕の作り方なども教わっていった。
(グライフスヴァルトのロゼリーさん自宅でインタビュー) |