2019年6月11日掲載 − 脱原発
過渡期のドイツ反原発運動
前回記事からの続き)

ここ数週間、毎週のようにベルリン自由大学で行われている原発問題の公開講座に参加している。


それは、ドイツで長い間反原発運動をしてきた知人、友人と久しぶりに会ういい機会でもある。懐かしい顔の話を聞いたり、会って話をした。それがうれしい反面、これから大丈夫かなと、とても不安に思うことも多い。


原発問題は、脱原発が決まってそれで終わったわけではない。廃炉、放射性廃棄物の中間貯蔵と最終処分など、まだ問題が山積みされている。


そこで一番ポイントになるのは、現世代が将来世代に関わることについてまで責任を持って決めなければならないということだ。さらにここでは、絶対に安全だと100%保証することができない。だから、より安全な方法を実現するために意見を出し合いながら、何らかの妥協をすることも必要になる。


これは、これまでの反原発運動がしてこなかったことだ。


いや、それだけではない。民主主義の枠組で将来世代のために決めるというのは、民主主義にとっても全く新しいことなのだ。というのは、将来世代の声はその決定プロセスにおいて反映させることができないからだ。


最終処分地の選定において、(現在の)住民の声をどう反映させるのか。ドイツは、住民参加の形で最終処分地を選定することを法的に規定した。そのためには、社会全体が一緒に議論して、最良の方法を決めなければならない。


しかし反原発運動は、過去において政府や官庁を批判するばかりだった。


ぼくは、最終処分地の選定プロセスが法的に規定されるまで、何度となくそれに関わるシンポジウムなどに参加して取材してきた。


そこで痛感するのは、この問題は単に相手方を批判するだけでは何にもならないということだ。お互いに議論しながら、批判するところは批判しながら、議論に積極的に参加して、意見を出していく。そうしてみんなが共同で、できるだけいいアイディアを見つけていくしかないのだ。


でもそれは、これまの反原発運動にとって最も苦手とすることだ。妥協してこなかったからだといってもいい。妥協しなかったのは、これまでの運動ではとても大切だった。


でも、それでは先に進まない。国内で最終処分を実現するための解決策を見つけなければならない。そこから逃げることはできないのだ。最終処分を実現するには、目を将来に向けて議論する必要がある。


それに対して、反原発運動の目は今も後ろを向いたままだ。批判のベースが過去だからだ。だから、批判ばかりが出てくる。事実に基づかない挑発もある。議論とはいえないものもある。


それでは、一般市民はついてこない。最終処分地の選定においては、社会全体が納得しなければならない。市民なしでトップダウン型で決めてしまえば、過去の過ちを繰り返すことになる。


脱原発が確定したドイツでは、原発問題に対する関心が薄れてしまったのも事実だ。公開講座に参加するのは、ほとんどが高齢者。若者は、ほんの数人しか見かけない。


しかし最終処分候補地が挙げられると、問題が加熱してくるのは目に見えている。でも、それではもう遅い。今の段階から、最終処分地問題で市民が議論に参加していかなければならない。


でも現在、それに対して市民はほとんど関心を持っていない。それだけに反原発運動は、市民の注目を集めるために、過激な発言を繰り返す。でも、それはむしろ逆効果となる。一般市民が反発し、離れていくだけだ。


今、ドイツの反原発運動はジレンマの中にある。過渡期を向かえているといってもいい。


ぼくは、最終処分地の選定において反原発運動のこれまでの経験や知見を十分にいかしてもらいたいと思っている。


最終処分候補地のゴアレーベンで反対運動を続けているマルティンに、そのことをぶつけてみた。マルティンからは以前、ゴアレーベンの反対運動が最終処分地選定の住民参加プロセスの枠組みには加わらないと聞いていたからだ。


マルティンは、「でも外からみて、どんどん意見をいっていくつもりだ。それが、大切だと思っている」と話してくれた。


そのためには、ドイツの反原発運動も変わらなければならない。


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(2019年6月11日)
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