2019年11月26日掲載 − 脱原発
東西ドイツによる合同反原発デモ

2019年11月9日で、ベルリンの壁が崩壊して30年となった。


30年前のその頃、東ドイツでは新しい原発が建設中だった。東ドイツ北東部のグライフスヴァルト原発では、出力440MWのソ連製加圧水型炉4基(5号機から8号機)が建設されていた。5号機は完成間近だった。西部のシュテンダール(マグデブルクの北部)では、1000MWのソ連製加圧水型炉4基の建設が決まり、1号機と2号機の建設がはじまっていた。


しかしドイツ統一後、稼働中の原子炉(グライフスヴァルト原発1号機から4号機とラインスベルク原発)の廃炉と、建設中原子炉の建設中止が決まった。稼働中だった原子炉には、西側の原子炉でいう格納容器がなく、安全性に問題があった。建設中の原子炉については、統一ドイツにおいて新しい原子炉を建設しても、それだけの電力需要がなかった。


壁が崩壊する前、東西ドイツの反原発運動の間にはほとんど交流がなかった。むしろ、東ドイツ側の秘密警察の監視が強く、交流するのがとても難しかったといったほうがいい。それでも、ちょっとした情報を西側から東側に提供することはあったらしい。チェルノブイリ原発事故後も、事故の問題について書いたチラシが東ドイツに送られていたことがわかっている。


たとえば放射性廃棄物処分施設が計画されていたゴアレーベンからは、ゴアレーベンで何が計画されているかを知らせるため、国境線からチラシを付けた風船を東側に飛ばしたこともあるという。


国家監視体制の強力な東ドイツでは、当然のことながら反原発運動を表立って行うことはできなかった。教会がスペースを提供して、集会を開いたり、市民に情報を提供するためのチラシを作成していた。教会に保護された小さな地下組織だったといったほうがいいと思う。


1989年11月9日以降、東西ドイツ国境においても次第に壁が解放され、東西で市民が行き来できるようになった。


1990年2月と3月、東ドイツのシュテンダール原発建設地に向け、東西ドイツの反原発グループが合同で反対デモを行った。それが、東西ドイツ原発反対運動の最初の合同反対デモだった。


シュテンダール原発は東西ドイツ国境線に近く、ゴアレーベンの真南に当たる。デモには、ゴアレーベンの反対グループがトラクターに乗ってデモに参加した。東ドイツ市民より、西ドイツ市民のほうが俄然多数参加していたという。


当時ゴアレーベン反対運動を代表するスピーカーだったヴォルフガング・レームケさんによると、西ドイツの過激な活動家たちが原発敷地を仕切る柵まで近づいたという。でも東ドイツ警官隊を刺激しないよう、とても慎重に行動した。


東西ドイツはそれぞれ、国境沿いに放射性廃棄物を処分する施設を予定していた。ドイツ統一により、皮肉にもそれら施設は統一ドイツのど真ん中に位置することになる。


(2019年11月26日)
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