ドイツの市民電力会社EWSシェーナウの創立者の1人で、医師のミヒァエル・スラーデクさんが亡くなられた。77歳だった。
シェーナウの市民電力会社といえば、今でこそ日本でもよく知られるようになった。不幸なことにシェーナウを日本で有名にしたのは、2011年の福島の原発事故のおかげだった。
ぼくがスラーデクさんらの活動について知ったのは、1990年代末か2000年代のはじめだったと思う。ベルリンであった反核医師の会IPPNWのシンポジウムだった。
シンポジウムでは、ミヒァエルさんと連れ合いのウルズラさんが自分たちの活動とその経緯について、いろいろ話してくれた。そのきっかけがチェルノブイリ原発事故だったというのも、歴史が繰り返されているように思う。
原発に反対し、再生可能エネルギー主体にエネルギー転換するため、市民自らが立ち上がって電気を供給する。ぼくはそんなことが可能なのかと驚くと同時に、先見の明のある将来ビジョンに遭遇し、ぼくはこれだと思った。
ぼくはドイツに暮らすジャーナリストとして、スラーデクさんたちの活動をすぐに日本で紹介したいと思った。
しかし当時、日本でいろいろ可能性を探したが、日本のメディアは誰も関心を示してくれなかった。まったく相手にされなかったといったほうがいい。
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ソーラーパネルの間に立つミヒァエル・スラーデクさん © Elektrizitätswerke Schönau |
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2011年3月に福島原発事故が起こると、ぼくは今こそ、シェーナウのスラーデクさんたちの活動を紹介しなければならないと思った。
当時ぼくが協力していた日本のキーテレビ局に提案して企画すると、フランスで行われるG7サミット前に背景ニュースの一環で取り上げたいという返事がきた。
その時でさえ、社内にはどうかなあという反対もあった。
すぐに市民電力会社EWSシェーナウに電話すると、当時CEOだったウルズラさんが取材に応じてくれることになった。いろいろ予定があるのですぐには難しいといわれたが、福島原発事故の問題があるのでぜひと拝倒した。
その時、福島原発事故後に日本からコンタクトしてきたのは、ぼくがはじめてだといわれた。
取材を終えて放映されると、社内ではこんなことが可能なのだととても評価が高かった。
ミヒァエルさんに最後に会ったのは、ベルリンで開催されたエネルギー協同組合の総会だったと思う。その時ミヒャエルさんは、市民中心に設立されたエネルギー協同組合がエネルギー転換の原動力になっているにもかかわらず、市民のエネルギー協同組合を優遇せず、ドイツ政府は再エネに投資する企業を優遇していると、出席していた政府のエネルギー担当の経済省事務次官を厳しく批判した。
その時のミヒャエルさんはいつも通り、とてもエネルギッシュだったのを記憶している。
市民電力会社のEWSシェーナウは世代交代し、今はウルズラさんとミヒャエルさんの息子セバスティアンさんらが中心となって運営されている。ぼくが2011年5月に取材した時、セバスチャンさんはお母さんのウルズラさんの元でまだ修行中という感じだった。
あの時セバスチャンさんに、子どもの時両親の活動をどう感じていたかと聞くと、夜になると自宅によく知らない人たちがたくさん集まっているのを見ただけで、両親が何をしようとしているのかまったく知らなかったという。でも今から思うと、両親はすごいことをしていたのだなあと、誇りに思っているという返事が返ってきた。
ミヒャエルさん、ウルズラさんらが撒いた種は、エネルギー転換における市民運動のお手本になるようなもの。ドイツのエネルギー転換における市民運動の基盤になっている。そこからドイツでは、いろいろな形で市民によるエネルギー協同組合が誕生していった。
シェーナウで市民が配電網を買い取り、市民電力会社を設立できたのは、ミヒャエルさん、ウルズラさんらが地元で地道に市民と企業を説得したからだった。
その活動は大きく成長し、ドイツばかりか、世界各地に広がっている。本当の意味で、エネルギー市民運動の先駆者だった。しかしその意思はまだ、完全に実ったわけではない。残された世代がミヒャエルさんらの意思を継ぎ、また次の世代へとバトンタッチしていかなければならない。
ぼく自身にもそういい聞かせながら、ミヒャエルさんのことを偲びたい。
(2024年9月30日)
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