バロックオペラは、イタリア・オペラが中心だったといっていい。台本もイタリア語のものがほとんどだった。ただその中で、ドイツには17世紀前半にすでにドイツ語のオペラ作品もあったことを前回紹介した。これらの作品は、ドイツの民族的なものだったともいえる。
前回も書いたように、イタリア・オペラが17世紀前半にオーストリアに入り、それからさらにドイツに浸透してくる。ドイツでも、イタリア・オペラの波に勝てない。1730年代になると、ドイツ語のオペラに固執したハンブルクの劇場が閉鎖され、イタリア・オペラ指向がより一層決定的となる。
たとえばすでに紹介したカール・ハインリヒ・グラウン(「グラウン〈シーザーとクレオパトラ〉」)は、18世紀前半にドイツで活躍したイタリア・オペラの代表的なドイツ人作曲家だった。グラウンは、ナポリ楽派に属した。
ナポリ楽派は、ナポリ出身か、ナポリの音楽学校で勉強した音楽家たちのこと。オーケストラの音楽を充実させ、18世紀のオペラに新鮮な様式をもたらした。イタリアばかりでなく、ヨーロッパの主要都市の宮廷や劇場において、オペラの創作と普及に重要な役割を果たしている。
その代表的な作曲家の一人に、ドイツ作曲家がいた。ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699−1783年)。ドレスデン生まれで、ナポリにおいてスカルラッティとポルポラの元で学んだ。その後、ドレスデン、ヴィーン、ヴェネツィアで活躍する。
ハッセは、オペラ作品だけでも60余りの作品を書いた。ほとんどが、イタリアの代表的な詩人、オペラ台本作家のピエトロ・メタスタージオの台本によるものだった。
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ハッセのオペラ〈ソリマーノ〉公演のプログラムから(ベルリン国立オペラ) |
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ぼくは、そのハッセの〈ソリマーノ〉(1753年初演)をベルリン国立オペラで観たことがある(1999年2月07日)。
これは、16世紀中頃に君臨したオスマン帝国の皇帝スレイマン1世の物語。舞台は、バビロンに近いオスマン帝国軍の軍営だ。
インスブルック・バロック音楽祭との共同制作だった。だが、音楽にいまひとつ情感がない。歌手も力量不足だった。演出家としてベルリン・デビューを果たしたベルリン国立オペラ総支配人クヴァンダーの演出も、少し創造性に欠けた。
ただそれは、公演だけの問題ではないと思う。
ハッセの音楽は、情緒をより豊かに表現するため、弦楽器の役割がより強くなっている。しかしその音楽は、当時の型にはまった音楽の域を出ていない。
音楽史からすれば、ハッセは確かに、当時のたいへん重要な作曲家だった。しかし現在、18世紀のオペラはヘンデルとグルックに集中している。この二人の音楽に比べると、ハッセの音楽は物足りず、古臭い感じがして新鮮さがない。その意味で残念だが、現在ほとんど演奏されず、忘れられてしまったのも致し方ない気がする。
日本では、浮世絵師喜多川歌麿が生まれたのが、〈ソリマーノ〉が初演された1753年だった。『解体新書』(1774年)を共同で翻訳した杉田玄白はその時、まだ20歳だった。
(2020年7月20日) |