ベルリン国立オペラで、リヒァルト・シュトラウスの歌劇〈ナクソス島のアリアドネ〉を観た。2015年新演出と、古いもの。ただぼくはどうしても、ベルリン国立オペラでリヒァルト・シュトラウスの音楽を聴きたかった。ちょうどタイミングよく、〈ナクソス島のアリアドネ〉を上演していた。
すでに書いたが(「コロナ禍でコンサートにいく苦労」)、昨年クリスマスにベルリン国立オペラで、プッチーニの歌劇⟪ラ・ボエーム⟫を観た。その時、このオーケストラでどうしてもリヒァルト・シュトラウスの音楽を聞きたいと思った。
元旦に、⟪最後の4つの歌⟫と⟪英雄の生涯⟫のコンサートに行くことにした。ところが、コロナ抗原テストの結果が手元に届かない。入場できず、開演後に断念せざるを得なかった。その時は、ワクチン接種の証明だけではなく、抗原テスト陰性証明を提示するのが、会場に入場できる条件だった。
その後になり、ワクチンを3回接種してあれば抗原テストの陰性証明は不要になった。今、オミクロン株で感染者が激増している。しかし、ワクチン接種証明だけで入場できる。
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改造中のベルリン国立オペラハウス。2017年4月撮影 |
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ぼくにとって、R. シュトラウスのオペラでその良さがよくわからないのは、〈ナクソス島のアリアドネ〉と〈カプリッチョ〉なのだ。たとえば〈サロメ〉や〈エレクトラ〉だと、元々話の筋がある作品なので、わかりやすい。〈ばらの騎士〉は新しく構想されたものだが、話の筋は明快だ。
それに対して〈ナクソス島のアリアドネ〉と〈カプリッチョ〉では、テーマがオペラそのもの。ことばがとても大切になっている。その上、構成がすこしひねってあり、混み入っている。演出して制作する側も、必ずしも理解しているとは限らない。それが観る方を、さらに混乱させる。
演出したのは、ハンス・ノイエンフェルス。ノイエンフェルスというと、2010年のバイロイト音楽祭において、ヴァーグナーの〈ローエングリン〉で合唱団をネズミに扮装させた。ベルリン・ドイツオペラでも、ヴェルディの〈ナブッコ〉で合唱団をミツバチにしたことがある。前衛的で、観る方を徹底して挑発する。
その挑発に乗って怒ってしまうと、彼の意図がわからなくなる。ノイエンフェルスの演出はいつも、隅々に渡って考え尽くされている。それを感じ取らなければならない。
今回もそうだった。
〈ナクソス島のアリアドネ〉は、プロローグとオペラからなる。実際にはその両方で、クレタ王の娘アリアドネを演じるプリマドンナと若い神のバッカスを演じるテノール歌手、それに音楽教師とオペラを書いた作曲家によるシリアス組と、ツェルビネッタと道化を演じる喜劇役者4人の茶番組で構成される。それが作品の中で、交互に交錯する。
そう思うと、とても複雑なように見える。でもそうではない。音楽は単純明快なんだ。でもそれが、下手に豪勢な舞台装置のある舞台で演じられ、演出も物語をただなぞるだけで進んでいくと、観る方はシリアスな場面と茶番の場面がわからずに混乱する。
ノイエンフェルスの舞台は、白い壁だけからなる。合間に舞台の背景として、ピンクのカーテンと黒いカーテンだけが出てくる。ピンクは俗っぽさを表し、黒はシリアスさを表す。
歌手をたくさん動かしているように見える。でも動きは、最小限だ。ちょっとした仕草の違いや、歌手の舞台への入り方だけで、場面を明快に変えてくれる。だから、とてもわかりやすい。それが、音楽の明快さとマッチしている。
作曲したシュトラウスと台本を書いたホフマンスタールの手の内を、見事に明らかにしてくれたといってもいい。それとともに、シュトラウスとホフマンスタールのすごさが次から次に、ガンガン届いてくる。
わあすごい!、というのが実感だ。
このオペラには、バロックオペラの要素がある。バロック的な喜劇、イタリア的な茶番劇、それにギリシャの悲劇の面影があちこちに現れる。それが渾然と構成される。それが、シュトラウスの美学なのだ。
何と深い、豊かな作品なのだろうか。
残念だったのは、指揮の若いトーマス・グッガイスが最後になって、よりによってこの作品を『グランド・オペラ』のようにすごく大きな音で演奏させてしまったこと。いや、それは違う。〈ナクソス島のアリアドネ〉は〈カプリッチョ〉と同じように、室内オペラなのだ。それは、オペラ部分の冒頭が、弦楽器の合奏ではじまっていることでもわかる。オーケストラの編成も小さい。コンサートマスターのローター・シュトラウスさんのソロが音といい、抑揚といい、すばらしかった。
最後は大きな音で感動させようとせずに、室内オペラのように質素に終わったほうが、もっと感動したと思う。
最後のシーンについても、書いておかなければならない。
ホフマンスタールの台本では、最後はバッカスのキスによって、アリアドネに新しい愛が目覚めてハッピーエンドに終わる。しかしノイエンフェルスは、アリアドネを自殺させてしまうのだ。神バッカスもそれを事前に察知していたかのように、舞台から去り、一人で清らかな天国に戻るのだった。
アリアドネは亡くなったからこそ、バッカスと清らかになることができたとも取れる。あるいは、神に見放され、死の迎えがきたギリシャの喜劇になったのか。それとも、何か他のことを暗示するのか。
終わりは、ノイエンフェルスらしい。
(2022年1月31日、まさお) |