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2025年大晦日のベルリンフィルのジルベスターコンサートと、2026年元旦のヴィーンフィルのニューイヤーコンサートのテレビ中継を見た。
ベルリンフィルのジルベスターコンサートは音楽監督キリル・ペトレンコ指揮で、愛をテーマとする作品のガラコンサートだった。
テーマからしてオペラ作品が中心となる。オペラのアリアを歌ったのが、テノール歌手の星ともいわれるフランス人のバンジャマン・ベルナイムだ。
取り上げられたオペラ作品は、チャイコフスキーの⟪エウゲニー・オネーギン⟫、グノーの⟪ロメオとジュリエット⟫、ビゼーの⟪カルメン⟫、マスネの⟪ウェルテル⟫。さらにアンコールではプッチーニの⟪トスカ⟫と、愛のドラマにおいてテノール歌手が中心人物(レンスキー(オネーギン)、ロメオ、ドン・ホセ(カルメン)、カヴァラドッシ(トスカ))となる作品ばかりだ。
それぞれの作品のアリアの前には、オーケストラによって前奏曲なども演奏された。しかしテノールのアリアに加え、何といってもチャイコフスキーの幻想序曲⟪ロメオとジュリエット⟫が圧巻だった。
ペトレンコはオーケストラに最大限の要求をする。しかしオーケストラはたいへんと思うどころが、それを満喫して音楽とペトレンコの要求が高くなればなるほど、それを楽しんで演奏しているのだ。ペトレンコとオーケストラが蜜月状態にあるのだと思う。
ぼくは今回、はじめてベルナイムを聴いた。ようやくまたすごいテノール歌手が出てきたかと感じた。今テノール歌手として注目され、おばさんたちが追っかけているジョナサン・テテルマンはイケメンでいい声をしている。しかしベルナイムには、テテルマンに足りないインテリゲンチャと歌の心がある。
ぼくはすぐに、ベルナイムのファンになった。
最後に付け加えておきたいことがある。
それは、選曲されたテノールのアリアが、それぞれのオペラ作品ではテノール役の中心人物が自殺したり、殺されたりする前に歌った最後のアリアだったことだ。
聴衆がそれに気づいたかどうかとは別に、よりによってお祝いイベントともいっていいジルベスターコンサートにおいて、愛のドラマから死ぬ前のアリアだけを取り上げるとはすごい選曲だと思う。
しかしそれだからこそ、音楽が心に深く刺さって感動する。ジルベスターコンサートを単なるお祝い事で済ませたくないペトレンコの意図がよくわかる。
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ジルベスターコンサートのあったベルリンフィルの拠点ベルリン・フィルハーモニー大ホール |
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ベルリンフィルのジルベスターコンサート以上にお祝い事なのは、新年元旦のヴィーンフィルのニューイヤーコンサートだ。
ニューイヤーコンサートでは伝統的に、「(ヴィーンの)ワルツ王」、「オペレッタ王」といわれるヨハン・シュトラウスを中心としたシュトラウス・ファミリーの作品が主に演奏される。
しかし今回指揮したメトロポリタン・オペラの音楽監督ヤニック・ネゼ・セガンは、その伝統を崩しにかかる。
シュトラウス・ファミリーの作品以外に、カール・ミヒァエル・ツィーラーやヨーゼフ・ランナー、フランツ・フォン・ズッぺ、ハンス・クリスチャン・ロンビの作品のほか、ジョゼフィーネ・ヴェインリッヒとフローレンス・プライスという女性作曲家の作品も取り上げた。
ニューイヤーコンサートで女性作曲家の作品が演奏されるのは、はじめてではないか。
ヨーゼフ・シュトラウスの⟪女の面目⟫や⟪平和の棕櫚⟫と、今の時代を反映させるタイトルの作品も取り上げた。
ネゼ・セガンの意図的な選曲ばかりでなく、ネゼ・セガンの明るいキャラクターと音楽造りは、ヴィーンの保守的なニューイヤーコンサートの伝統に新風を吹き込んだのは間違いない。
しかし毎年思うのだが、なぜ深く心に届かない音楽ばかりを元旦に集めて伝統的に演奏するのか。たとえ悲劇の音楽であっても深く心に刺されば、それを聴いてよかったと深く感動するものだ。
それによって、新たにパワーが生まれる。
しかしニューイヤコンサートはお祝い事で、しゃんしゃんと何事もなく終われば、新年は何の問題なく終わるとでも思っているのか。あるいは、そう期待したいのか。それとも、社交的なものであればいいのか。
単なるお祝い事だけでいいなら、何とかいいコンサートにしようとする指揮者やオーケストラの努力は報いられない。
コンサートの間も世界では、戦争や飢餓でたくさんの人が亡くなっている。その現実は変わらないし、その現実から逃れることはできない。現実はしゃんしゃんでは終わらない。
(2026年1月02日、まさお) |