2025年8月23日掲載 − HOME − オンライン講座 − 戦争と平和 − 日本にいたナチ党
1937年から1947年の間日本にいたナチ党、Ein NS-Mitglied von 1937 bis 1947 in Japan

ラインホルト・シュルツェは若い時から、熱狂的なナチス党の支持者だった。若くして全国青少年指導者バルドゥール・フォンシーラッハの下で、全国青少年指導部の国際交流課長となる。


日本とドイツが1936年11月に日独防共協定を締結すると、日本はすぐにドイツの青少年組織との交流を希望する。大日本帝国の青少年組織を設立するためだ。そのお手本が、ナチス党の青少年組織ヒトラーユーゲントだった。


まず1938年に、ヒトラーユーゲントに日本にきてもらう。その後に、日本の青少年組織がドイツを訪問したい。日本は、代表を日本に派遣してほしいと要請した。


1937年独日青少年交流のため、シュルツェは部下を日本に派遣することにした。ところが部下が日本へ出発する6週間前に突然、日本にはいけないといった。部下の妻が日本行きに反対したからだった。


シュルツェはすぐに、部下の代わりに自分が日本に行くことを決心する。6週間後、ヒトラーユーゲントの代表として、在日ドイツ大使館に入った。


1939年、第二次世界大戦が勃発する。シュルツェはすぐに、ドイツに戻って戦いたいと思った。しかし妻が猛烈に反対。シュルツェは日本に留まることにし、翌年ドイツ大使館の文化担当官として外交官となる。


シュルツェは日本の終戦後、米軍によって拘束された。1年間、巣鴨拘置所に留置される。シュルツェの過去からして、軍事裁判にかけられると思われた。裁判がいつ行われるのか、家族はいつも心配しながら暮らした。1年経つとある日突然、シュルツェは日本の将官と一緒に釈放された。


釈放後もシュルツェは米軍に拘束された形だったが、外交官として米軍から特別に待遇される。1947年ドイツに帰国する時も、米軍がすべて手配してくれた。


シュルツェはドイツに戻って、ナチス党から脱党。復権した。幸い、ドイツでも裁判にかけられなかった。


フィルムはシュルツェが日本赴任後、1938年に中部地方から関西、中国、九州、四国の各地方を講演旅行して回った時のものだ。同じ年の夏に予定されているヒトラーユーゲント日本訪問の準備を兼ね、西日本各地を回ったのだった。


フィルムは東京駅を出発した後、車中から見える富士山の映像ではじまる。一行は名古屋から宇治、京都を訪ね、岡山、広島へと向かった。宮島では厳島神社を参拝。映像からは、原爆で破壊される前の広島の様子を覗うことができる。


その後九州に向かい、阿蘇山、鹿児島、桜島、宮崎を訪ねた。本州に戻り、松江に移動。そこからさらに四国に行って、松山、宇和島で歓迎を受けた。最後は、大阪毎日新聞と大阪朝日新聞を表敬訪問している。


訪問地ではどこでも、盛大に歓迎された。日本の青少年が相撲や剣道、その他伝統芸能を披露。野球場などにたくさんの人が集まり、歓迎式典が行われる。一行には、少年団日本連盟理事長の二荒芳徳伯爵が随行した。少年団日本連盟は後に、ボーイスカウト日本連盟となる。


ぼくはラインホルト・シュルツェのことを、息子のハンスユルゲンから直接聞いた。ハンスユルゲンが日本で生まれ、戦中、戦後と日本にいたことを知って、ハンスユルゲンが当時、原爆投下のことを日本にいてどう知ったのか聞ききたいと思った。それでインタビューを申し込む。その時ハンスユルゲンが父ラインホルトのことを話し、このフィルムのDVDがあることを知り、ぜひ見たいといったのだった。


ハンスユルゲンがその時、「父ラインホルトが日本行きを決めたのは人生最高の決断だった」と何度となく繰り返したのが印象的だった。それによって、ラインホルトがナチスによる大量虐殺に関わらずに済んだからだった。


ラインホルト・シュルツェのことも含め、ハンスユルゲンをインタビューした内容については、拙書『「小さな平和」を求めて』にまとめてある。関心のある方は、のぞいてもらいたい。


フィルムからは、戦争のはじまる前の日本の様子がよくわかる(白黒版、音声なし(47分)、ドイツ語文字入り)。




(2025年8月23日)
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