1989年11月に東西ドイツ国境の壁が崩壊すると、東ドイツ市民は一直線に、ドイツ統一へと進んでいった。
1990年3月18日に行われた人民議会選挙は、東ドイツで行われたはじめての自由選挙。その選挙で市民は、最終的にドイツ統一を選択することになる。
東ドイツ市民は、新しい東ドイツを求めて民主化運動を引き起こした市民グループを支持せず、西ドイツの姉妹政党から莫大な資金をもらって選挙を戦ったキリスト教民主同盟(CDU)を第1党とした。
選挙の結果、ドイツ統一はもう避けることはできなくなった。
まず、1990年7月から東西ドイツの通貨が西ドイツマルクに統一される。問題は、その時の交換レートだった。
東ドイツマルクと西ドイツマルクの交換レートは、東ドイツでは公式には1対1。それに対し、西ドイツでは当時、1対10くらいで交換されていた。
しかし、西側のレートでは東ドイツ市民の手持ちの現金が激減し、統一された社会では生活できなくなる。その結果、豊かな生活を求めて、たくさんの東ドイツ市民が西ドイツに移住することが危惧された。
それでは、東ドイツでは人口が激減し、西ドイツでは人口が急増する。大きな社会問題となるのは、間違いなかった。
西ドイツの労働組合も、それによって東ドイツから安い労働力が移入して、西ドイツ市民がたくさん失業すると警告。できるだけ東ドイツ市民を移住させないよう求めた。
この点は、西ドイツのエゴが丸見えだ。だが、大きな社会問題となることを避けるには、何らかの政治判断が必要だったのは確かだった。
その結果、1人当たり2000マルクまでは1対1で、それ以上は1対2で交換することが決定された。
ただこの交換レートは、東ドイツの経済界にとって「死ね」といわれたのと同じだった。
東ドイツでは、一般社会と経済界で2つの交換レートが使われていた。すでに述べたように、一般社会では1対1。経済界では、1対4.4だった。それによって、経済界はソ連を含め、主に中東欧諸国へ輸出することができた。
そのため東ドイツ側は、経済界には別の交換レートを設けてほしいと要望。西ドイツの連邦銀行総裁もそれを支持した。
しかし当時の西ドイツ首相コールは、それをまったく無視した。
その結果、東ドイツの企業はもう存続できる可能性を失ったといってもいい。借金のない企業はない。この人工的に高い交換レートでは、借金の負担は数倍に膨れ上がる。これまでの主要輸出市場だった中東欧でも、もうビジネスはできない。
東ドイツ企業に資金を貸し出していたのは、主に東ドイツの中央銀行だった。そしてその中央銀行も含め、東ドイツの銀行はすべて西ドイツの民間銀行に売却された。
本来であれば、国の中央銀行は合併するのがすじみち。でもそれさえも民間に売却させたのだから、いかに西ドイツの思惑通りに統一プロセスが進んでいたかがわかる。
これは、東ドイツにおける経済界の負債が、西ドイツの民間銀行に有利なように、割高の交換レートで引き渡されたということでもあった。
通貨統一は、こうして東ドイツ経済を破壊する道具となった。
当時、東ドイツ経済の生産性は、西ドイツの30%にしかならないといわれた。しかしそれは、東ドイツ経済が労働者の生活の一部になっていたことを無視した評価だった。業種毎に詳しく見れば、国際競争力のある企業があったのも忘れてはならない。
しかし、それを理解しない西ドイツ側が、通貨統一と同時に、自国にもまだ採用したことのない純粋で過激なネオリベラリズムを基盤にして、東ドイツ経済を一刀両断にバサッと切り捨てたのだった。
(2019年10月18日)
統一への復讐:
(1)東ドイツに対する無知 (2019年10月04日)
(2)東ドイツ市民に対する不公平 (2019年10月11日)
(4)新しい市場でしかなかった (2019年10月25日)
(5)憲法も人材も西側から (2019年11月01日)
(6)右傾化するドイツ東部 (2019年11月08日) |