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2週間前に掲載した記事「ドビッシーのオペラ⟪ペレアスとメリザンド⟫」において、ベルリン国立オペラでクロード・ドビッシーのオペラ⟪ペレアスとメリザンド⟫を観たことについて書いた。この公演は1991年3月にプレミアのあった演出の公演で、観たのは41回目の公演だった。
オペラ公演は通常、同じ作品でも演出家、指揮者、歌手のキャストを変えて新しく制作されていく。35年も前に演出された公演が今も上演されるのは、とても珍しい。
ところがベルリン国立オペラには、⟪ペレアスとメリザンド⟫以外にももっと長く上演されている作品がある。ジョアキーノ・ロッシーニのオペラ⟪セルビアの理髪師⟫だ。これは1968年に制作された公演で、これまで400回以上も上演されている。
この2つの公演を演出したのは、女性演出家のルート・ベルクハウスだ。いずれも、永遠に上演され続けてもおかしくない。
ベルクハウスは1927年ドレスデン生まれで、1996年にベルリン南東にあるツォイテンで亡くなっている。旧東ドイツで振付と演出を学んだ。1970年代には、劇作家ブレヒトの劇場であるベルリナー・アンサンブルの総監督も務めている。
ベルクハウスの演出が今も上演されているのは、ベルリン国立オペラだけではない。ハンブルク国立オペラでは1988年に演出されたヴァグナーの⟪トリスタンとイゾルデ⟫が、マンハイムの劇場では1980年に演出されたR.シュトラウスの⟪エレクトラ⟫が今も上演される。
ぼくはベルリン国立オペラにおいてその他にも、ヴェーバーの⟪魔弾の射手⟫、モーツァルトの⟪コジ・ファン・トゥッテ⟫、ベルクハウスの夫であるデッサウの⟪ルクルスの審問⟫をベルクハウスの演出で観た。いずれも今はもう観れないが、その時の舞台は今もはっきり記憶に残っている。
ベルクハウスの演出の特徴は、演出のコンセプトがはっきりし、中途半端な解釈がないこと。しかし斬新的でわかりにくい。当時は、受け入れがたいと思った観客も多いと思う。
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ベルリン国立オペラでの⟪ペレアスとメリザンド⟫公演後のカーテンコールから。舞台左側で黒い洋服を着ているのが指揮のロト |
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もう一つベルクハウスの演出で顕著なのは、女性に対する見方が厳しく、皮肉っぽく描かれていることだ。それが批判的に見られることが多い。しかしバルクハウスは、男性の女性像を舞台上で再現し、そう見る男性とそういう態度をとる女性を批判しているのだ。
女性名詞と男性名詞のあるドイツ語では今、こどばにおける男女差別が問題になっている。たとえば先生ということばには、女性名詞と男性名詞の区別がある。その場合、一般的に先生という場合どちらを使うのか。伝統的には男性名詞が使われてきた。今そこには、ことばのジェンダーの問題があると批判される。
古いベルクハウスのインタビューを聞いて驚いたのは、ベルクハウスは当時すでにことばのジェンダー問題をはっきりと意識し、現在そうなってきているように、男性名詞で一般化するのではなく、女性名詞と男性名詞の両方を並べて使っていたことだ。
ベルクハウスに先見の明があったといわなければならない。何年も先を見ていたのだ。
ただそれは、ジェンダーの問題だけではなく、ベルクハウスの演出すべてに当てはまる。
先日観たドビッシーのオペラ⟪ペレアスとメリザンド⟫を最初に観たのは、プレミエから数日後の公演だった。正直なところ、何という抽象的な演出だと驚くと同時に、何となくすごいなあとも感じた。しかし具体的に、何がすごいのかはまったくわかっていなかった。
35年経った今、ベルクハウスの演出の意図がようやくわかり、本当にすごい演出だと実感できるようになった。
ペレアスとメリザンドの話はどこにもありそうな愛の話。それを象徴的に描いたメーテルリンクの戯曲テキストと、テキストに答えようとしない無言性の音楽が複雑に絡み、神秘的で、劇的なエネルギーをその裏に感じさせるようになっている。ベルクハウスの演出では、メーテルリンクのテキストとドビッシーの音楽に物語を語らせ、物語に隠れた神秘的で、劇的なエネルギーを舞台によって感じさせるようになっている。
だから舞台も演技も、抽象的に何かを象徴するだけになっている。時代も場所の設定もない。具体的なものがどこにもないから、何年経ってもその時代のものとして観れるともいえる。
何という作品の解釈で、演出の構想なのだと思う。
当時ほとんど理解されていなかったのは、当然なのかもしれない。
ベルクハウスは一人で先を見て演出していたのだ。それがベルクハウスのすごさであり、魅力だ。
(2026年7月07日、まさお) |