ペトレンコ指揮、ベルリン・フィル演奏で、リヒァルト・シュトラウスのオペラ⟪エレキトラ⟫を聞いた。これは、バーデンバーデンでのイースター音楽祭で上演されたオペラ公演を、ベルリン・フィルの本拠地ベルリンにおいて、コンサート形式で公演したものだった。
『エレクトラ』というと古代ギリシャの詩人ソポクレスの悲劇かと思うかもしれない。しかりオペラの⟪エレキトラ⟫は、ソポクレスの悲劇を土台にしているが、台本を書いたホフマンスタールとR. シュトラウスのコンビの独自のものだ。ソポクレスの作品以上に、エレクトラが中心に描かれている。
オペラではエレクトラがぼろを纏い、父親のアガメムノン王を殺害した母親クリテムネストラと母親の情夫エギストに復讐する怨念で、気も狂わんばかりになっている。妹のクリソテミスはそれでは地下に幽閉されてしまうと警告するが、エレクトラは聞き入れない。
エレクトラは行方のわからない弟オレストが復讐してくれると信じ、戻ってくるのを待っている。しかしオレストの死が伝えられる。
エレクトラはクリソテミスに一緒に復讐しようと話しかけるが、妹は恐ろしさから逃げていく。エレクトラは自分で復讐することを決心。埋めて隠しておいた父が殺害された時に使われた斧を掘り出しはじめる。そこに男がくる。そのうちに、エレクトラと男は、自分たちが姉弟だと悟る。
エレクトラは弟が復讐してくれると信じるが、弟に斧を渡すのを忘れて心配する。
そのうちに宮殿から、クリテムネストラの悲鳴が聞こえる。エギストがエレクトラの前に現れ、エレクトラはエギストを殺害する。
そこに、妹のクリソテミスがオレストが母を殺したとの知らせを持ってくる。狂乱するエレクトラ。乱舞しながら倒れてしまう。クリソテミスが「オレスト」と叫びながら、オレストに助けを求めて幕となる。
父の復讐に燃える、エレクトラの激しい怨念の物語だ。愛をテーマにしたロマンチックなオペラしか知らないと、その激しく、ダイナミックな音楽に打ちのめされ、ぶん殴られたかのようにたいへん大きなショックを受けると思う。
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ベルリン・フィルの⟪エレクトラ⟫のコンサート形式公演のカーテンコールから。舞台前方でペトレンコの前をいくのが、エレクトラ役のニーナ・シュテムメ。 |
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しかしオペラの⟪エレキトラ⟫では、ホフマンスタールのテキストとR. シュトラウスの音楽を聞くと、エレクトラの復讐への怨念だけで終わっていないことがわかる。それは、オレストが登場することでエレクトラの感情が微妙に変化し、音楽も激情だけの音楽ではなく、とても豊かで、多面的な音楽に変わることでもわかる。
問題は、それに気づくかどうかだ。
それに気づかずに、ダイナミックで激情の音楽だけを強調すると、はじめて聞いた聴衆には、「なんという音楽だ」とすごいショックを与えるだろう。しかしそれだけでは、オレストが登場してからの音楽が物足りなく、よくわからなくなる。
ぼくはこれまでよく、⟪エレキトラ⟫を聞くごとにこの後半の物足りなさに、なぜかと不満を抱いてきた。
しかし今回は、まったく違った。
指揮のペトレンコはオレストが出てくるまでの前半を、劇的だが、むしろモノクロ的に演奏させる。エレクトラ役のニーナ・シュテムメとクリソテミス役のエルザ・ファン・デン・へーヴァーの声質が似ていたこともあって、エレクトラの激情の声が弱く感じる。
しかしオレストが登場するとともに、男性の声が入ることで、女性のエレクトラとのコントラストがはっきりすばりでなく、音楽の音色と抑揚がより豊かになる。
ペトレンコが、⟪エレキトラ⟫の聞かせどころはここからなんだとはっきり意識していたからだと思う。
エレクトラ役のシュテムメの声にダイナミックさが欠けていたところが、逆にエレクトラの人間性を表現するようになる。エレクトラは単に復讐の怨念に囚われていた奇人ではない。人間性を再発見するのだ。だから、オレストへの兄弟愛も抱くようになる。
R. シュトラウスの音楽は、それを見事に描き変えている。それをペトレンコとベルリン・フィルが表現豊かに再生した。
そこには、⟪エレキトラ⟫から⟪ばらの騎士⟫に発展していくR. シュトラウスの音楽のすばらしさがひしひしと感じられる。⟪エレキトラ⟫あっての⟪ばらの騎士⟫でもあったのだ。
いやー、すばらしいにつきる。すごい。こんな⟪エレキトラ⟫ははじめてだ。
公演が終わって、会場全体がスタンディングオベーションで大喝采したのも当然だ。みんな、歴史的な場に居合わせることができたのだと思う。
(2024年4月09日、まさお) |