リヒァルト・シュトラウスのオペラ『影のない女』は、とても難しいオペラ作品だと思われているかもしれない。
『メルヘンオペラ』といわれる。それは、話の内容が現実と幻想が交錯して空想的になっているので、『メルヘン』といわれるにすぎない。
話は、人間が現実の生活で直面する問題だ。それを、台本を書いたホフマンスタールが空想的に暗示の多い寓話として構成し、より難解なものにしたといってもいい。
ここで『影』とは、北欧の伝説で多産を意味する。『影のない』とは、「子どものできない」ということ。
日本にも、差別用語としてメディアでは使用が禁止されている「石女」ということばがある。これは、「うまずめ」と読む。こどものできない女性は『石』ということだ。
『影のない女』では、霊界王カイコバートが人間の女性との間にもうけた娘が、人間の姿をして皇帝の妻となっている。皇后は冥界からきているから、『影』はない。だが後3日のうちに影を得ないと、皇帝は石になり、皇后は冥界に戻らなければならない。
そのため皇后は乳母とともに、人間界で『影』を求めに出る。
そのターゲットになったのは、染物師バラクの妻だ。バラクの妻は、乳母と皇后にそそのかされ、影をゆずることにする。しかしバラクに『影』を売ったと打ち明けると、怒るバラク。妻は夫の愛を感じる。すると大地が裂け、夫婦は地下の冥界に落ちていった。
地下の冥界では、黄金色の水が湧いている。大王が皇后にこの水を飲めば、『影』を盗めるという。皇帝はすでに、ほとんど石になっている。しかし皇后は、バラク夫婦の愛を犠牲にできないと、水を飲まない。
すると、皇后のかたい決心と気持ちの尊さが運命を一変させる。バラク夫婦は助けられ、皇后には『影』がつき、皇帝も救われるのだ。すべて、ハッピーエンドで終わる。
物語は、人間の愛をテーマとしている。しかし男女は結婚してこどもを授かるものと、古い愛情観念に縛られている。現代社会から見れば、なんとまあ古い考えなのかと呆れてしまう内容だ。
それがシンボリックに描かれているから、それだけ余計に何かたいへん難しいこと、深いことが描かれているように錯覚してしまう。しかし物語は、この程度の内容だ。現代から見れば、バカにされてもおかしくない。
だからといって、『影のない女』というオペラがまったく価値のない作品だということではない。話の内容を忘れて音楽だけに集中すると、このオペラ作品のすばらしさがわかる。
ぼくはこのオペラは、R. シュトラウスのオペラ作品の中でも傑作中の傑作の一つだと思う。音楽表現がとても豊かで、深い。オペラってこんなにすばらしいものなのかと、オペラの醍醐味をこれでもかというくらいに満喫できる。オペラの絶頂期を代表する作品だと思う。
ただR. シュトラウスなど、後期ロマン派の作曲家のオペラ作品を最後に、オペラといえる作品はもう現れない。オペラ芸術はそれとともに、もう乗り越えることのできない域にまで達してしまったのか。それとも、それがオペラの限界なのか。
ぼくは、そうは思いたくない。オペラにおいてまだ、もっといろいろな新しい可能性が現れてもいいと思う。
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ベルリン・フィルの『影のない女』のコンサート形式公演のカーテンコールから |
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さてこの『影のない女』を、ベルリン・フィルが音楽監督のペトレンコ指揮で、バーデンバーデンでのイースター音楽祭で上演した。その後にベルリンでは、コンサート形式で公演があった。
ぼくはオペラ指揮者だと思っているペトレンコの『影のない女』は聞き逃せないと思った。幸いにも、ベルリン公演のチケットを手に入れることができた。その翌日には、バーデンバーデンでのオペラ公演もテレビで放映される。ぼくは、そのテレビ放送も見た。
ただ正直いうと、どちらの公演もぼくの期待を裏切るものだった。演出についてもいろいろいいたいことがあるが、ここでは音楽についてだけ述べておきたい。
まず1番の失敗は、歌手だ。皇后と皇帝、乳母、バラク夫妻の主役5人はみんなそれぞれよく歌っていた。だがバラクを歌ったヴォルフガング・コッホ以外は、人選ミスとしかいいようがない。これだけの大役を十分に歌い熟すには、荷が重すぎたと思う。
あるいは、これだけの大役を歌えるだけの歌手がもうあまりいないのか。
とても残念だった。
オーケストラは、ところところでとてもすばらしい響きを出すのだが、それが続かない。特に第一幕の前半は、金管、木管の音が荒く、楽器の生の音が出ていて、響きがうまくコントロールされていなかった。
指揮のペトレンコが音が大きくならないようにしょっちゅう指示を出していたが、抑えきれていなかった。
これらは、演奏の熟成度の問題でもあると思う。ベルリン・フィルはコンサート・オーケストラだ。オペラ作品は年1回程度しか演奏しない。
『影のない女』は多分、はじめて演奏する作品だったのではないかと思う。その場合、弦楽器のボウニングの準備からはじまる。そのためにコンサートマスターを中心に、弦楽器の弓をどのように動かすかをパート毎に調整し、それを楽譜に記入していく。
オペラハウスのオーケストラでは、長い間に渡って同じ作品を何回も取り上げるので、作品毎にボウニングについて試行錯誤してきた蓄積がある。しかしベルリン・フィルのようなコンサートオーケストラには、その長年の蓄積がない。
はじめて演奏するオペラ作品であっても、それがうまくいく場合もある。しかし今回のベルリン・フィル公演では、ところどことでどうもその熟成度が今一つだったという感じがする。
ベルリン・フィルがオペラのオーケストラでない宿命だともいえる。
ただそれだからこそ、ベルリン・フィルの音楽の幅と熟成度を上げるには、オペラ公演を続ける意味があるともいえる。
ペトレンコの指揮は、音楽監督就任当時に比べると、とても柔らかくなっている。歌手の呼吸に合わせてペトレンコが指揮しているのがよくわかった。自分でも歌手と同じように、呼吸しているからだ。ベルリン・フィルともうまく合ってきていると思う。
両者にとり、とてもいい組み合わせになったのは間違いない。今後、両者がどのように成長していくのか。これからがとても楽しみな演奏だったともいえる。
(2023年4月25日、まさお) |