今年9月で、作曲家アントン・ブルックナーの生誕200年。各地のコンサートにおいて、ブルックナーの作品が取り上げられている。
ブルックナーの指揮者というと、チェリビダッケやヴァント、ブロムシュテットなどが思い浮かぶ。チェリビダッケのブルックナーでは、前の音からの引き継ぎが重視され、ゆっくりしたテンポで内面的、哲学的な音楽を体験できた。ヴァントのブルックナーでは、音を過剰に装飾するのを避けて地味な音造りをするが、そこにむしろ音楽性の豊かさを感じさせてくれた。
ぼくがブルックナーでちょっとどうかなと思うのは、コラールのように瞑想的な音楽から急に大砲を打ったかのように、どかーんとした音がくること。この点に慎重に対応して、極度に差が大きくならないようにセンシブルに音造りをしているのは、超高齢のブロムシュテットではないか。
いずれにしても、ブルックナーの音楽は重く、長い。だから嫌いという人も多いと思う。
ただこれら巨匠のブルックナーの解釈は、ブルックナーを指揮することの多いティーレマンも含め、基本的にそれほど大きな差はないと思う。これがブルックナーの音楽だと、定着してしまっている。
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公演後のカーテンコールから。舞台右側でオーケストラの前に立つのが指揮者のペトレンコ |
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ベルリンフィルの新シーズンではブルックナー生誕200年ということで、ブルックナーの交響曲が何曲も取り上げられている。
その中でもぼくは、首席指揮者・音楽監督のペトレンコがブルックナー第5番を取り上げることに注目していた。ペトレンコの音楽造りが、ブルックナーの音楽に合わないのではないかと思っていたからだ。
そのペトレンコがブルックナーをどう指揮するのか。ぼくには関心があった。
第1楽章では当初、転調するところなどでその間合いの取り方が今ひとつしっくりこないところがあった。しかし先に進むにつれ、ぼくはブルックナーの音楽に革命的な変化が起きているような気分にさせられてくる。
ペトレンコの指揮では、膝のやわらかさを使ってリズムが軽くなる特徴がある。膝を使ってからだ全体で動いて指揮するから、音に自然な躍動感もある。テンポの変化が激しくても、とても自然だ。音の抑揚も柔軟でなめらか。音色が豊かで、幅も広い。
それが、ペトレンコの指揮がブルックナーに合わないのではないかと思っていた背景だ、しかしペトレンコの指揮の特徴がなんとしたことか、ブルックナーの音楽にぴったりと合っている。音に過剰な装飾もなく、過剰に強く、過剰に重い音もない。
自分はこうしたい、こう解釈しているというのが、はっきりと音楽に表れている。
たいへんなのは、楽団員だ。みんな汗だくという感じで演奏している。しかし楽団員は、満足感に溢れ、ああこの場にいてよかったという顔つきをしている。
こういう楽団員の顔つきは、マナコルダが指揮をしている時にもよく見かける光景だ。
ぼくは、こんなブルックナーを聞いたことがない。これならブルックナーが嫌いという聴衆も、ブルックナーの音楽のすごさを感じられるに違いない。
ぼくは、ペトレンコの指揮によってブルックナーの音楽が生まれ変わったと思った。
公演後ホールを出てから、主題のメロディを口ずさみながら会場を後にする人が何人もいた。ブルックナーの公演後に、こうして鼻歌を聞くのもはじめてのことだ。
ペトレンコが、これまでのブルックナー像を変えてしまった証だと思う。ぼくもその場にいることができ、とても幸せだった。
(2024年9月15日、まさお) |