2024年2月01日掲載 − HOME − ぶらぼー! − オペラ
シェーンベルクの⟪ヤコブの梯子⟫を聞く

今年は、作曲家アーノルト・シェーンベルクの生誕250年となる。シェーンベルクというと、「新ヴィーン楽派」の大御所と位置付けられている。そういわれても、シェーンベルクの音楽は何だんだ、よくわからない、知らないという人も多いと思う。


ぼくはこれまで代表作では、⟪期待⟫と⟪モーゼとアロン⟫、⟪今日から明日まで⟫の舞台音楽(オペラ)、⟪月に憑かれたピエロ⟫、⟪グレの歌⟫を聞いているはずだ。それは間違いない。交響詩⟪ペレアスとメリザンド⟫も聞いたことがあるように思うけど、定かではない。


シェーンベルクの音楽では、「調性音楽」とか「無調音楽」、あるいは「十二音技法」など、素人にはよくわからないことばが使われる。あるいは、シェーンベルクの音楽は「表現主義」の音楽ともいわれる。


しかしぼくはそういっても、シェーンベルクの音楽が難解になるだけだと思う。


シェーンベルクの音楽を聞いて感じるのは、それまでヴァグナーやR. シュトラウスなどの後期ロマン派の音楽で、絶頂に達したクラシック音楽に限界が見え、それをぶち壊してやろうとしていることだ。現代音楽のはじまりだともいえる。


ここでまた、「現代音楽」というわからないことばを使ってしまった。「現代音楽」ということばを使うよりは、シェーンベルクは音楽で何を表現しようとしているのか感じるほうがいいし、考えるほうがいい。


ぼくは、シェーンベルクは自分に、人間にとても正直な人だったと思う。それはどういうことか。人間にはいいところも、悪いところもあり、ドロドロしている。その人間のすべてをアクセプトして、悪いところも音楽でさらけだしてしまえ、人間の心にあるすべてのものを音で表現してしまえというのがシェーンベルクの音楽ではないかと思う。


その試行錯誤の過程において、シェーンベルクの音楽は「調性」から「無調」に、そして「十二音技法」に変わっていったのではないか。当時としては「異端児」であり、「とんでもないやつ」だったのだと思う。


今回めったに聞けない⟪ヤコブの梯子⟫を、音楽監督のペトレンコがベルリンフィルと一緒に取り上げるというので、「しめた」と思っていってきた。


オラトリオと宗教的な作品で、シェーンベルクが宗教心深い人だったことがわかる。旧約聖書『創世記』第28章のヤコブが見た夢を素材にしている。「梯子」が天国に延びる話だ。


台本も自分で書いて、制作に取りかかってから40年近くしても完成せず、未完に終わった作品だ。シェーンベルクの死後、妻のゲルトルートの希望で、弟子のヴィンフリート・ツィリヒが莫大なメモからかなり完成していた第一部と間奏曲を完成させた。第二部は結局、できないまま終わっている。


当初、300の管弦楽器と700人の合唱団の編成を考えていた。それを自分で縮小し、ツィリヒが完成させた版も、縮小版となっている。


シェーンベルクは作曲中に第一次世界大戦に徴兵されるなど、いろいろな過渡期を経ている。最終的にこの作品では「十二音技法」を使わずに終わっているが、その意味でシェーンベルクの試行錯誤のプロセスを現す作品でもあるのではないかと思う。


コンサートホールでは、管弦楽器と合唱が分散して配置される。天井下から奏でられる音楽は、天国から届く声のようにも聞こえる。十二声に分かれる合唱の使い方といい、管弦楽器の使い方には、その構成力のすごさに驚かされる。


ソリストの半分は「シュプレッヒゲザング」といわれる「しゃべり役」。話すように歌う。人間の内心には感情の起伏があるので、話すこどばが感情の起伏によって歌われているように聞こえる。


間奏曲は、人の魂の響きを表しているかのようだ。最後は、「無」の世界に消えていく。


すごい作品だと思った。


オーケストラと合唱で、200人以上の大編成。それでいて、音楽は決して大きくならない。繊細に、一つ一つの音が作られていた。音は硬くならず、柔らかい。会場全体が楽器のように感じられる。すべてを感じ取るには、耳がいくつあっても足りないかのようだった。


指揮のペトレンコ、ベルリンフィルの楽団員、ベルリン放送合唱団の団員、ソリストと、すべてが見事だった。感謝、感謝!


(2024年2月01日、まさお)
記事一覧へ
関連記事:
ベルリン・フィルがリヒァルト・シュトラウスのオペラ『影のない女』
シューマン交響曲第4番
関連サイト:
ベルリン・フィルの公式サイト
この記事をシェア、ブックマークする
このページのトップへ