2022年6月24日掲載 − HOME − 脱原発一覧 − 記事
福島原発事故、国のリスク管理はどこに?

日本の最高裁判所は2022年6月17日、2011年3月に起こった福島第一原発事故によって避難した市民が、国と東京電力に対して損害賠償を求めた集団訴訟において、国の責任を認めない判決を下した。


それまでの一審、二審では、国の責任を認めるか認めないかで、異なる判決が出ていた。それだけに今回の最高裁の判決によって、今後の訴訟においても国に責任はなかったと、統一した判決がいい渡される可能性が高い。


裁判で争点になったのは、
1)実際に起こった巨大な津波は事前に予測できなかったのか
2)適切な規制を行って対策を講じておれば事故は防げたのか
の2点だった。


それに対して最高裁は、「実際の津波は想定より規模が大きく、仮に国が東京電力に必要な措置を命じていたとしても事故は避けられなかった可能性が高い」と判断した。つまり、想定外の津波で、事故は避けられなかったとの判断だ。


今回裁判長となった菅野博之裁判官は、「原発は国を挙げて推進したものなのだから、今回の事故のような大規模な災害が生じた場合は、本来、国は電力会社以上にその結果を引き受け、過失の有無に関係なく、被害者の救済における最大の責任を担うべきだ」と、補足する意見を述べた。


しかし裁判においては、法律上の判断は被害者の救済とは異なるとする。「実際に起きた地震と津波があまりに大きく、長期評価を前提に行動したとしても事故を回避できたと判断するには無理があると言わざるをえない」と判断した。


しかしぼくは、今回の最高裁の判決には、大きく2つの欠陥があると思う。


一つは、裁判では津波の規模を予測できたか、できなかっただけにこだわり、原発に許認可を出した国のリスク管理のあり方がまったく審議されていないこと。


もう一つは、このような大きな被害をもう繰り返さないためには、司法判断はどうあるべきかがまったく問われていないことだ。


避難した住宅
住民が避難して残された住宅は、ほこりだらけだった(2015年、福島県楢葉で撮影)

国は原発の建設と運転を許可したからといって、それだけでその原発が起こした事故に対して、責任があるわけではない。許認可を出した後、国が責任を持って、事故が起きないようにリスク管理しなければならない。そのリスク管理こそが、原発の安全を維持する最も重要なキーポイントだ。


それでは、リスク管理とは何か。


リスク管理の原則は、予防だ。つまり、事故が起こらないように予防することが、リスク管理の目的となる。


予防するには、大きな課題がある。それは、自然災害など事前に予測できない不確定要素がたくさんあるからだ。福島原発事故では、その不確定要素として津波が問題になった。


リスク管理においては、事前に予測して確定できないものがあっても、事故が起こらないように、たとえ事故が起こっても事故の被害を最小限に止めるようにするのが、本来あるべきリスク管理の姿だ。


原発は、最低でも40年稼働する。設計して建設、稼働を開始した時点の技術、安全に関する水準と知見は、稼働期間が長くなるにつれ、大きく改善されていく。その改善された水準と知見を、すでに動いている既存原発にも常に反映させる。それが、原発を安全に運転する国際基準になっている。


日本の原発のリスク管理において、新しい改善された水準や知見が順次フィードバックされていたのだろうか。裁判において、それがまったく検討されていない。


むしろ裁判外において、政府の原子力行政において、そのフィードバックが行われていなかったことが明らかになっている。


もう一つ重要なのは、事前に予測できない不確定要素に備えて、原発の安全性にどれくらい余裕を持たせておくべきかの判断だ。原発を建設、運転する側からすれば、その余裕が小さければ小さいほどいい。そのほうがコスト安になるからだ。


国はリスク管理の観点から、安全性に関してどれくらいの余裕を持たせていたのだろうか。しかし裁判においては、津波が想定外だったかどうかだけが審議されたようなので、原発の安全性においてたいへん重要となるこの点が審議されなかったと見られる。


こうして見ると、今回の最高裁の裁判において、国のリスク管理の課題にまで突っ込んで、十分に審議したのかどうか、甚だ疑問だ。


それをしないでは、原発事故に対する国の責任は問えない。これは、原発事故だけではなく、工業製品、工業プラントの安全に対する国のリスク管理すべてに関わる問題だ。


ぼくは以前から、日本では地震と津波の規模にこだわりすぎていると思っていた。それでは、津波が想定外だったと判断されたら、国の責任は問えない。ぼくが恐れていた通りになったと思う。


もう一つ重要な点は、裁判は何のためにするのかだ。裁判は単に、法律にしたがって罰するだけのものだろうか。そうではないと思う。


罰を課すことには、抑止効果が期待されている。つまり、今起こったことが将来、できるだけ起こらないようにしたい。そのための裁判なのだ。


それだけではない。法律は完璧なものではない。裁判の過程で、法律の不備や行政の不備を明らかにして、それを改善させる目的も、裁判の判決になければならない。


ドイツには憲法裁判所があり、憲法裁判所がその役割を果たしている。


それに対して憲法裁判所のない日本では、最高裁判所がその役割を果たさない限り、法律や行政の不備は改善されない。


しかし今回の最高裁の判決では、被害の大きさを認めながらも、事故は想定外で、避けようがなかったから、どうしようもなかったとしか述べられていない。


それでは、福島原発事故のような大きな被害を繰り返さないようにするには、どうすべきなのか。まったく審議、検討されていないではないか。


それでは、何も変わらない。事故が繰り返される危険が残るだけだ。司法裁判の責任とは何かを無視した、まったく無責任な判決だったといってもいい。


自分たちの責任意識もない裁判官には、国の責任の有無を判断する能力も資格もなかったのだろう。


誰も責任を取ろうとしない日本の体質なんだろうが、情けない。何と悲しい現実なのか。


(2022年6月24日)
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