ジャコモ・プッチーニのオペラ⟪蝶々夫人⟫は、どのオペラハウスにおいてもプログラムに載るオペラ作品の定番といってもいい。長崎が舞台になっているだけに、日本でもよく知られている。
話の内容がエキゾチック的であるばかりでなく、話の筋に植民地主義時代の偏見があるほか、人種差別的な面があるのも否めない。その点から、⟪蝶々夫人⟫を好きではないというオペラファンもいると思う。
もう一つの⟪蝶々夫人⟫の不幸は、「ある晴れた日に」や「可愛がってくださいね」、「さよなら坊や」など有名なアリアばかりに注目がいってしまっていることだ。そのため、作品が全体として耳にまで届いておらず、オペラ作品として音楽がしっかり理解されていないことではないだろうか。
ぼくは⟪蝶々夫人⟫の公演を何回も聞いている。しかし公演から残っているのは、どうしても有名なアリアの部分と第2幕の例のきれいな間奏曲くらいになってしまっている。
それでも、プッチーニの⟪蝶々夫人⟫のことならよく知っていると思い込んでしまっている。それでは、作品が偏って理解されていないだろうか。
有名な作品なので、ここでは物語については語らない。音楽について書きたい。
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ベルリン・フィルののコンサート形式公演⟪蝶々夫人⟫のカーテンコールから |
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この⟪蝶々夫人⟫の不幸な状態を払拭してくれたのが、ベルリン・フィル演奏、ペトレンコ指揮によるコンサート形式の公演だった。これは、ドイツ南西部のバーデンバーデンにおいてイースター音楽祭の枠でオペラ公演されたものをベルリンのフィルハーモニーホールでコンサート形式で上演したのだった。
まず最初、作品がフーガではじまるんだぞということをこれでもかと強調して演奏されることに度肝を抜かれる。長崎を舞台とするオペラだが、長崎どころではない。これからはじまる物語は、西洋社会のこと、西洋の男社会のことなんだとでもいわんばかりだ。
それとは対照的に、蝶々さんが登場するところは音楽がコラールのようになる。エキゾチックな女性が賛美されながら現れる。
しかし物語が進むにつれ、作品においてコントラバスやチェロ、ビオラの醸し出す低音の響きがとても重要な要素になっていることがわかる。低い音が最後の悲劇を暗示するかのようでもある。
第2幕において、幸せな夢を見ているかのうような、しかしそれでいてどことなく悲しい甘い間奏曲が演奏される。その後に続く第3幕の前奏曲では、厳しい悲劇となる運命を予感させるような音楽へと変わっていく。
第3幕の前奏曲の意味を考え、第3幕はじめにおいてこれほどはっきりしたコントラスを示して演奏された⟪蝶々夫人⟫ははじめてだ。そして作品は、悲劇へと向かっていく。ペトレンコの解釈に脱帽するしかない。
それだけではない。オーケストラが歌の伴奏を奏でるところでは、オーケストラが実際に歌うかのように抑揚がつけられ、歌とうまくマッチしている。さすがオペラの指揮者だ、といわざるを得ない。ここでも脱帽、脱帽だ。
こうしたペトレンコのはっきりした解釈のおかげで、ぼくははじめてプッチーニのオペラ⟪蝶々夫人⟫のすばらしさを再発見できたと思う。
悲劇のフィナーレが終わると、会場はスタンディングオベーションで大喝采だった。それどころか、ホールから出てくる人たちの顔つきがみんな、本当に幸せそうに見えたのがとても印象的だった。
蝶々さん役のエレオノーラ・ブラットもすばらしかった。ただピンカートン役の若いスターテノール、ジョナサン・テーテルマンは、評判ほどにはいいテノールだとは思わなかった。
(2025年4月29日、まさお) |