昨年2024年12月に、97歳のブロムシュテットがベルリンフィルの演奏でブルックナー第9番を指揮したことについて書いた(「97歳、無の音楽」)。ぼくはその時、ブロムシュテットが無の境地から指揮していると思った。
なぜ、無になれるのか。
それは、高齢になっても音楽を奏でることの幸せを満喫できるからではないか。それは、音楽に対する強い情熱でしかない。死ぬまで、音楽と共に生きる。それが、ブロムシュテットの音楽への情熱であり、幸せなのだ。
こうして、高齢のブロムシュテットは無になれるのだと思う。
 |
|
公演後のカーテンコールから。写真奥で、オーケストラの前に座っているのが指揮者のブロムシュテット。スマホのカメラの調子が今ひとつで、ピントがあっていないのでご容赦を |
|
|
なぜここでまた、ブロムシュテットのことを取り上げたのか。
それは最近、ベルリンフィルのコンサートを聴いていろいろ考えさせられることがあったからだ。ここでは、どのコンサートだったとはいわない。
その時、指揮者の手の動きは柔らかくてとてもよかった。音もきれいだった。しかし指揮棒の動きがどことなく中途半端で、動きにしまりがない。指揮棒を一振りしても、動きが最後まで収束せずに締まりがない。自分がどういう音楽をしたいのかよく伝わらない。指揮者はそれでいてよく顔を縦に振っては、オーケストラにそれでいいと相槌を打っていた。
それに対してブロムシュテットの指揮では、顔の表情が豊かなうえ、手ばかりでなく(指揮棒は持っていない)、からだで指揮をする。わずかな小さな動きでもわかりやすく、とても表現豊かだった。ひとつひとつの動きから、ブロムシュテットがどういう音楽を求めているかがよくわかる。
もちろん、ベルリンフィルをはじめて振る指揮者をブロムシュテットと比較するべきではない。
今回指揮者がそういう状態であっても、ベルリンフィルの楽団員は一生懸命演奏している。そのうちにテンポの早いところでは、オーケストラのほうが指揮者よりも先にいっていることがわかる。テンポが遅くなると、指揮とオーケストラがまた合うようになった。
コンサートマスターのからだの動きが普段より大きく、からだが指揮者よりもオーケストラの方を向いているのにも気づく。コンサートマスターが自分のからだの動きで、他の楽団員にこう演奏しようと、指示していたのだと思う。
ベルリン国立オペラのオーケストラ「シュターツカペレ・ベルリン」のコンサートマスター、ローター・シュトラウスさんが、「客演指揮者の場合、指揮者が十分に準備してしっかりした音楽造りのコンセプトを持っておれば問題はありません。でも、いつもそうだとは限りません。そういう時は、コンサートマスターが楽団員を引っ張ります。目線やからだで合図をして、音楽をまとめます。それは、いかなる状況においても最高の音楽造りをしたいからです」と、語っていたのを思い出す。
後半の曲はそういい作品だとは思わなかったが、途中からダイナミックになり、最後は壮大に終わる。会場は大喝采となる。しかしあまり知られていない作品とはいえ感動がなく、どういう音楽だったかも後に残らず、すぐに消えて覚えていない。
指揮者は音楽のことをよく知り、いい指揮者の部類に入ると思う。しかしなぜ、指揮棒から音楽が伝わらないのか。
こういうことは、ベルリンフィルの音楽監督ペトレンコの音楽や、超過密スケジュールで演奏会を続けてきた元ベルリン国立オペラ音楽監督のバレンボイムでは考えられなかった。ぼくのかっている指揮者マナコルダはいつも、これでもかというくらいに演奏者を引っ張っていく。
ぼくはその他にも、過去において錚々たる指揮者の音楽を聴いてきた。その経験からして今回、どうしてあういう指揮になってしまうのかと、いろいろ考えさせられた。
それは、自分がこういう音楽をしたいという音楽に対する強い思いと情熱が指揮棒の先まで届いていないからだと思う。指揮者によっては、情熱が指揮棒の先の先まで放出されている。今回聴いた指揮者では、それがなかったのだと思う。
残念だった。しかし、こういう経験も偉大な指揮者になるための一つの勉強だ。もっともっと指揮者として自分を磨いていってもらいたい。
(2025年6月19日、まさお) |