室内管弦楽団ポツダム・カンマーアカデミーとその首席指揮者・芸術監督を務めるアントネッロ・マナコルダがベルリンのピエール・ブーレーズ・ホールでベートヴェンの⟪第九⟫を演奏するというので、これを聴き逃すわけにはいかないと思った。
ただピエール・ブーレーズ・ホールは、室内楽ホールと小さい。合唱団も入るベートヴェンの⟪第九⟫には、小さすぎないかなと思った。案の定、演奏家たちの入るホール真ん中のスペースは超満員。演奏家の席が、観客席にくっつかんばかりだった。
ぼくにとってべートーヴェンの⟪第九⟫は、フルトヴェングラーが1951年に、バイロイト音楽祭が戦後はじめて再開される時に指揮した演奏だった。長い間それが、ぼくのThe⟪第九⟫だった。
しかし今聞くと、ちょっとロマンチックできれいすぎるし、ヴァグナーの陶酔性も感じてしまう。
ぼくのベートーヴェン像をぶち壊してくれたのが、指揮者のアーノンクールだった。アーノンクールはバロック音楽のスペシャリスト。しかしだからこそ、バロック音楽からベートーヴェンを再発見し、ベートーヴェン音楽の真髄である激しさと簡潔さ、テンポの速さを明らかにしてくれた。
ぼくはそれではじめて、ベートーヴェンのすばらしさとすごさを知った。
ぼくは、指揮者アルブレヒトにインタビューしたことがある。アルブレヒトがベートヴェン像について語っているが、それもアーノンクールに通じている。バロック音楽の読み方からきていた。
その記事「指揮者アルブレヒト、ベートーヴェンについて語る」は、ベートーヴェンを理解する上でとても貴重なインタビューだったと思っている。
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ピエール・ブーレーズ・ホールであったポツダム・カンマーアカデミーのコンサートのカーテンコールから |
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マナコルダが音楽監督を務めるポツダム・カンマーアカデミーも、バロック音楽を基盤にしている。トランペットとホルン、ティンパーには、古楽器が使われている。木管も古楽器になっていることがある。
マナコルダがベートーヴェンをバロック音楽から読んでいるのは、これまでの演奏からもよくわかった。今回の⟪第九⟫もまさしくその通り。ベートーヴェン音楽の激しさが、これまでかといわんばかりに表現されていた。
第一楽章では高齢者の中に、心臓が止まって倒れてしまう人がでるのではないかと思ったくらい激動的だった。それが、ベートーヴェンの激しい音楽なのだ。そうでないと、ベートーヴェンのすごさはわからない。
しかし激しさと簡潔さだけでは、ラトルのように冷たいベートーヴェンになりかねない。
そこに、魂とパワーが注ぎ込まれなければならない。マナコルダにはそれができるから、楽団員は早いテンポとテンポの変化に真剣な顔で対応しながらも、顔には満足感が現れている。そこに、ベートーヴェンの音楽を楽しんでいる姿がある。演奏される音楽に魂が入るのだ。
⟪第九⟫はよく演奏されるだけに、ソリストに音楽を任せてしまう指揮者も多い。しかしマナコルダは気心のしれたオーケストラばかりでなく、合唱団からソリストまですべてに自分のベートーヴェンを浸透させていた。
指揮者を中心に、ソリスト、オーケストラ、合唱団が一つになっている。その集中度がすばらしい。だからこそ、音楽から多大なパワーが溢れ出る。
ただ⟪第九⟫には、ホールが小さすぎたのも事実。マナコルダとポツダム・カンマーアカデミーには、大ホールで演奏してほしい。
ポツダムに大ホールがないという問題もある。しかしこのすごいパワーがもっと大きな華を咲かせるには、大ホールが必要だと思う。
(2024年2月27日、まさお) |