2023年5月31日掲載 − HOME − 脱原発一覧 − 記事
ドイツの脱原発の芽はどこにあったのか

いつだったろうか。2011年のフクシマ原発事故の後であったのは間違いない。ヴッパータール気候環境エネルギー研究所の元所長ペーター・ヘンニッケ教授と、連邦議会内であったシンポジウムで会い、ちょっと話しをする機会があった。


教授に、「ドイツの脱原発に大きなきっかけになったのは、やはり1986年4月に起こったチェルノブイリ原発事故ですよね」と話すと、教授はそうではないと否定した。


教授はドイツでは、チェルノブイリ原発事故前に原子力発電の限界を認識し、脱原発への可能性について検討して、脱原発が可能であるとの見通しがすでに認識されていたと主張する。


教授が誇らしげな顔をしているのが、とても印象的だった。


当時それを認識していた一人が、ヘンニッケ教授自身だった。教授は1985年に、『エネルギー転換は可能』(S.フィッシャー出版刊)という本を出している。


その他にも脱原発を念頭においた本として、クラウスミヒァエル・マイアーアビヒとベルトラム・シェフォルト共著の『ぼくたちは将来、どう生きよう? エネルギーシステムの社会適合性』(1981年)、『核経済の限界』(1986年1月)(いずれも、C.H.ベック出版刊)などを挙げることができる。


マイアーアビヒは物理学者、自然哲学者だが、ヘンニッケとシェフォルトは経済学者だ。


学校のソーラーパネル
ドイツ北西部の再エネの町ザーベックでは、生徒たちが学校の屋根にソーラーパネルを設置した

チェルノブイリ原発事故以前に、原子力発電の限界を見通し、その代替となるものの可能性を提示していた学者がいたことになる。


たとえば『核経済の限界』のまえがきにおいて、物理学者で、第二次世界大戦中にドイツの原子爆弾開発にも関わったカールフリードリヒ・フォンヴァイツゼッカーは、「もし人類が核エネルギーをいかに不注意に、軽率に取り扱うのかを想像できていたら、核エネルギーのために尽力しなかった」とし、太陽エネルギーは原子力の代替エネルギーだと、はっきり断定している。


当時ドイツ西部のアーヘンに暮らしていたヴォルフ・フォンファーベックは偶然、このフォンヴァイツゼッカーのことばを見つけていたのだった。それが、フォンファーベックを太陽エネルギーに夢中にさせるきっかけだった。


フォンファーベックは1986年、有志とともに「太陽エネルギー振興協会」を設立。1989年に、アーヘンモデルといわれる再生可能エネルギーで発電された電力の固定価格買取制度(FIT)の原型を立案し、今世界中で適用されているFIT制度の生みの親の一人となる。


ドイツはこうして、脱原発への道を歩みはじめたのだった。


ただフォンファーベックらはすでにこの段階で、脱原発ばかりでなく、脱石炭も念頭に置いていたのはいうまでもない。


(2023年5月31日)
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関連サイト:
ヴッパータール研究所(ドイツ語)
ドイツ太陽エネルギー振興協会(ドイツ語)
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