2024年10月17日掲載 − HOME − 脱原発一覧 − 記事
ドイツでは「核エネルギー市民対話」という枠組みで政府と原発反対派が話し合ってきた

ぼくは「ドイツの脱原発から何を学ぶ?」の記事において、ドイツの脱原発から学ぶとすると、意見の異なる勢力がともに対話することだと書いた。その事例として、脱原発を求める政府と、原発を保有する電力会社が脱原発で対話し、脱原発で合意したことを挙げた。


その他にも旧西ドイツでは、原子力発電をはじめる一番最初の段階ですでに、原発を推進したいとする政府とそれに反対する市民が対話する枠組みが設けられていた。それを「核エネルギー市民対話」といった。


1970年代はじめに、西ドイツ南西部のヴィールに計画された原発の建設に反対する運動が激しくなったのをきっかけに、政府の担当大臣だったハンス・マトホェーファー研究技術大臣のイニシアチブではじまったのだった。


当時はブラント政権、シュミット政権と、社民党を中心とした中道左派政権だった。


市民対話は法的拘束力のあるものではないが、土地利用目的を整理するために行われる建設基準計画の策定を住民参加で行うことが法的に規定されており、それを補足する手法として市民対話が取り入れられた。


核エネルギー市民対話は原発を推進したい政府と、原子力の利用に批判的な原発反対派がオープンに討論する場で、何らかの結果を求めるものではなかった。


ただ政府は、市民との対話によって原子力利用の利点をアピールし、原子力発電に対して社会のアクセプタンスを得ることを目論んでいた。


対話には、担当大臣など政府の代表、原子力関係科学者、環境団体の代表などが参加した。政府主導の市民対話以外にも、政府は原発問題に関して市民対話を促進するため、1200に及ぶ第三者のイベントにも助成金を出している。


「核エネルギー市民対話」は1970年前半から、原発の建設を実現する目的で行われてきた。しかし時間が経つにつれ、放射性廃棄物処分に対するアクセプタンスを得ることを目的にする方向に変わっていく。そのため市民対話の中心は、放射性廃棄物の総合施設を建設しようとした西ドイツ北西部のゴアレーベンに移っていく。


ゴアレーベンが西ドイツ社会の反原発運動の象徴となったことは、日本でも知られていると思う。


しかし政府が1982年末に、市民に黙ってゴアレーベンに放射性廃棄物の総合施設を建設することを内々に決定してしまっていたことから、市民側が対話する意味がないとして対話をボイコット。1983年になると、市民対話はもう継続されなくなった。


最終処分地の選定と最終処分の実施を監督するドイツ政府の放射性廃棄物処分安全庁(BASE)は、核エネルギー市民対話が行われた1974年から1983年までを記録して、それを社会学的に評価するプロジェクトを委託していた。それによって政府が市民と対話を求めた過去の知見を得て再評価し、その結果を住民参加による最終処分地選定に活かす目的だった。


プロジェクトは5年かけて行われ、最終報告書が今年2024年4月に公開された。


今月10月になり、その最終報告書を紹介するイベントが放射性廃棄物処分安全庁(BASE)で行われた。市民対話がはじまってから50年後のイベントには、当時の生き証人が何人も参加していた。


環境団体の代表として市民対話に参加していたヨーゼフ・ライネンさんは当時を思い出し、すぐに原子力に代わる代替エネルギーに関していろいろ議論されたのは驚きだった、今から思うと一つの重要なポイントだったと思うと話す。


社会学の立場から市民対話を評価したオルトヴィン・レン教授は、政府と市民社会がオープンに話し合ったのは画期的なこと、しかし1982年に中道左派のシュミット政権から中道右派のコール政権に政権交代したことで、政府に市民と対話することに関心がなくなり、市民対話が最終的に失敗したとした。


それによって、政府が市民からの信頼も失ってしまったのも事実で、その代償は非常に大きい。


しかし最終報告書は、市民対話によって市民側に原子力に関する知識、知見が蓄積され、それがその後の反対運動にたいへん役立ったと評価する。


過去の市民対話の経験を住民参加による最終処分地の選定にどう活かすかになると、最終処分地を提案することになる政府と政府機関、それに候補地に選ばれた地元地域社会の間で信頼関係を築いていけるのかどうか、それが一番重要なポイントになるとする。


現在の最終処分地選択の住民参加プロセスを見ていると、政府側はとても誠実に、慎重に対応している。


しかし一旦失った信頼を回復するのは、そう簡単なことではない。そのため、反対派で現在の最終処分地選択の住民参加プロセスに参加にしている人は少ない。参加しているのはむしろ、最終処分地候補になりそうな自治体関係者や地域住民など、反対運動をしてこなかった市民だ。


問題が加熱するのは、最終処分候補地の名前が具体的に挙がってくる時だ。その時、それまで築いてきた信頼は維持されるのか。とても難しい課題だと思うが、信頼を築いて維持、拡大する作業は今後も、最大限に続けなければならない。


日本の現実をそれなりに知っているだけに、ぼくはドイツで行われているオープンなプロセスを見るにつけ、羨ましくて仕方がない。その違いにいつも、すごいなあと感心している。


日本でドイツと同じことができるかとなると、政治と市民社会の地盤が違いすぎるので、日本では不可能としかいいようがない。日本の政治と市民社会にパラダイムシフトが起こらなければならないと思うが、どうすればそれが可能になるのか、ぼくにはまだわからない。


今のぼくにできるのはこうして、日本では考えられないことがドイツで起こっていたことを紹介していくだけだ。


(2024年10月17日)
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