2023年7月18日掲載 − HOME − 脱原発一覧 − 記事
反原発運動から抗議文化へ

ここまでは主に、脱原発に向けた政治的なプロセスについて書いてきた。ただ、ドイツの反原発運動のことを忘れてはならない。


ドイツの反原発運動というと、1970年代後半に放射性廃棄物の処分に関わるすべての中央施設候補となったゴアレーベンでの反対運動と、コアレーベンの中間貯蔵施設に搬入される高レベル放射性廃棄物に対する輸送妨害デモなどが、よく知られている。


ゴアレーベンの反対運動の中心になったのは、「リュッコウ・ダンネンベルク環境保護市民イニシアチブ」という市民団体だ。この市民団体は、地元での反対運動を続けながらもドイツの反原発運動の中心的な存在になったといっていい。ゴアレーベンの反対運動が、緑の党誕生の一つの基盤ともなる。


しかしドイツの反原発運動は、その前から続いていた。それは、原発建設に反対する運動だった。1970年代はじめに、ドイツ南西部のヴィールに計画された原発の建設に反対する運動がはじめての大きなものだった。建設計画はその結果、断念された。


ヴィールは、旧西ドイツ領に位置する。西ドイツの反原発運動は元々、原発建設計画のある地元毎に起こった。草の根的なものだった。原発建設反対運動は、1970年代に集中する。その結果、反対運動を恐れた政府や電力会社は原発建設計画を大幅に縮小する。それが、脱原発で停止された商業炉が19基で済んだ一つの大きな要因だともいえる。


反原発デモ
フクシマ原発事故後の2011年3月26日、ドイツ各地で大きな反原発デモがあり、全国で25万人が集まった。写真は、ベルリンでのデモから

稼働した原発に対しても、建設許認可手続きの不備(ミュルハイム・ケアリヒ原発)や原子炉の設計値と施工値の違い(オブリヒハイム原発)、原発周辺への健康被害(クリュムメル原発)などを理由に、地元住民によって提訴が続けられてきた。その結果、原発の運転が長期に停止されたり、停止と再稼働が何回も繰り返された。訴訟による判決で、廃炉を余儀なくされた原発もある(ハム原発、ミュルハイム・ケアリヒ原発)。


住民の反対運動は、電力会社側に多大な損害をもたらした。


西ドイツは国内で、核燃料サイクルを構築する意向だった。しかしヴァカースドルフ再処理施設の建設が中止され(1989年)、完成したカルカー高速増殖炉の運転(1991年)も臨界しないまま断念された。残された建物は現在、遊園地として再利用されている。


高速増殖炉の放棄はナトリウム漏れなど、技術的問題があったからだ。しかし強固な反対運動がなければ、そう簡単には放棄されなかったと思う。ドイツは国内での核燃料サイクルを諦め、再処理をフランスとイギリスに委託する。


原子力産業関係者の中には、国内で核燃料サイクルを断念したのは原発の魅力を半減させ、脱原発する道筋をつくったと見る人もいた。


ドイツの反原発運動は、単なる反原発運動には止まらなかった。1970年代から1980年代に運動した活動家の中には、反原発運動だけでは原発は止まらないとして、環境運動や省エネ運動、有機農業運動、再エネ推進運動、平和運動などに移っていった人も多い。それとともに市民運動の底辺が広がり、ドイツ社会では市民による反対運動が「抗議文化」といわれるまでに成長する。


活動家が反原発運動から他の市民運動にも広がっていったことは、ドイツが脱原発を達成する上でとても重要だった。ドイツの脱原発へのプロセスを振り返ると、ぼくはそう思う。


(2023年7月18日)
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関連サイト:
ゴアレーベン廃棄物処分施設に反対する市民団体、リュッコウ・ダンネンベルク環境保護市民イニシアチブ(ドイツ語)
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