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1986年のチェルノブイリ原発事故後、(西)ドイツでは原発の新設が不可能となる。それは、国内の原子力産業にとって大きな打撃になった。その後ドイツが2000年に脱原発を決めたことで、ドイツの原子力産業はフランスに吸収されたような形になり(実際には合併だが)、ドイツに主な原子力産業はなくなった。
現在ドイツに残る原子力産業は、ドイツ北西部のグローナウにあるウラン濃縮工場と、同じくドイツ北西部のリンゲンにある燃料集合体製造工場だけとなっている。前者が英ウレンコ社、後者がフランスの新プラマトム社に所属する。
ドイツの原子力産業は、ジーメンス社を中心とする「発電所連合(KWU)」といった。国内で建設された原発のほとんどを受注してきた。KWUはチェルノブイリ原発事故後に、国内では原発を新設できず、既存原発のメンテナンスを行うだけだった。それでは、受注量があまりにも少なかった。
この問題は、原発を運転する大手電力会社にも悩みの種だった。原発産業を維持するのか、脱原発の可能性を探るのか。政府は超党派で、将来のエネルギー政策について経済界と政治合意をするため、1993年からエネルギー・コンセンサス会議をはじめる。
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ドイツ北西部のリンゲンにあったリンゲン原発。すでに廃炉されている。そのほぼすぐ横に、2023年4月15日にドイツ最後の原発の一つとして停止されたエムスラント原発があり、その近くに燃料集合体製造工場がある |
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当時のドイツでは、国政野党社民党と緑の党は原発に反対する立場。それに対して国政与党と経済界は、新しい原発は国内に必要ないが、原子力技術を輸出するには、国内での原発新設をオプションとして残しておいたほうがいいとの考えだった。
ドイツ政府は当時、中道右派のコール政権。原発に対する社会の不安を緩和するため、まず1994年に原子力法を改正する。原発を新設する場合、炉心溶融などの重大事故が起こっても原発周辺に被害が出ないように設計段階で防護措置を講じることを規定した。この条件を満たすのは、当時独仏で共同開発中の欧州型加圧水型炉(EPR)だけだった。
この法改正は、安全規制を強化したように見える。しかしそれは、ドイツでEPRを実現するためのお膳立てでもあった。
EPRの基本設計が終了すると、ドイツ政府は原子力法を改正する。原発の立地場所毎に行う建設許認可手続きにおいてEPRには型式承認を認め、政府当局によって安全性基準が一度審査されれば、立地場所で審査しなくてもいいとした。既存の原発に対しては、改造に際して最新の知見と技術に準じることを義務付けるバックフィット制度を緩和し、その必要性を免除した。
この2つの規制緩和は、1998年に原子力法を改正して行われた。現実として、原発の安全性にとってとても重大な規制緩和だった。しかし国内では、ほとんどその重大性が認知されていない。
連邦制のドイツでは、地方分権化が進んでいる。原発に関連する法規の執行と監督は、原発立地州に委ねられる。しかし州では、政権交代の頻度が高い。反原発の社民党が政権を握る州では、原発の新設は無理だった。ちょっとした事故が起こっても原発が長期に停止させられ、何回も一時停止と再稼働を繰り返すケースも見られた。たとえば、ビブリース原発、ブルンスビュッテル原発、ブロックドルフ原発などが、こうしたトラブルに巻き込まれた。
この2つの安全性基準の緩和は、後に首相となるメルケル環境大臣の下で行われる。州政府に左右されず、国主導でドイツの原発と原子力産業を維持するための苦肉の策だったともいえる。
ドイツなど国内に原子力産業のある国では、原発を運転する電力会社と原子力産業は、一心同体のような関係にある。どちらかが転けると、もう片方も転けてしまう危険がある。
原発事故後に、原発を新設できなくなるのは、電力会社の問題となるばかりでなく、原子力産業にも大きな痛手となる。その点で原発事故後であっても、原発推進に動くのは、既存の原発と原子力産業を維持するためには必要な課題。そうして、既存の産業構造が維持される。
ドイツはチェルノブイリ原発事故後に原子力産業を救済しようとしたが、原発事故から10年余りで脱原発を決定できたから、まず原子力産業が放棄され、脱原発に進むことができたともいえる。
日本ではフクシマ原発事故を起こしておきながら、容量市場を導入することで既存の電力市場構造を維持し、さらにGX関連法で原発を維持、拡大して、国内の原子力産業も生き残らせる。
ドイツと日本の違いは、はっきりしてしまった。
(2023年6月13日) |