文化的自由と右傾化
「地道な市民」の記事「ネオリベラリズムと右傾化」(2019年7月18日)において、ネオリベラリズムが社会が右傾化する基盤になっていると書きました。これは、ネオリベラリズムと右傾化の関係を経済的な視点から見たものでした。
次に、ネオリベラリズムの影響を経済的にではなく、社会的、文化的に見てみたいと思います。
ネオリベラリズムは今度、「文化的自由」という形で反映されます。文化的自由とは、生活スタイルや習慣、性的指向、言語、宗教など文化的なアイデンティティを自分で自由に選択できることをいいます。
リベラルな社会だから、自分の文化的アイデンティティを自由に、また多様に選択することができるのです。
こうして、社会的束縛から自由になり、多様性のある価値観を持つことができるようになります。報道の自由や言論の自由など自由に知る権利があるから、価値観は同一ではなく、多様なものだと知ることもできるのです。
これが、男女平等を求め、性的少数派、障害者、少数民族、移民、異民族など少数派に対する差別を否定する基盤になります。
それとともに、社会において少数派が勢力を拡大させます。少数派の存在が認められ、少数派の意見が聞き入れられます。少数派は自己の権利を保護するため、主張を強めていきます。
「ネオリベラリズムと右傾化」でも書きましたが、社会には常に保守的な人、右翼的からさらに極右的な人がいます。そういう人たちにとって、社会が多様化して、自由に変化していくのは認めがたくなっていきます。少数派が、社会において自分と同じ権利を持つもの認められません。
これまでの自分の価値観と違う価値観を持つ人たちが、社会に増えていくのが認められなくなります。これは自分の社会ではない、という意識が強くなっていきます。
この状況が、一部の保守的な人、右翼的な人を不安にさせ、社会を右傾化させる要因になります。
移民排斥と右傾化の問題も、同じ論理で起こります。移民という異文化人が社会に入ってきたから、社会に不安を抱き、移民排斥が起こって社会が右傾化します。
その結果、右翼や極右が活性化し、それに同調していく人たちが増えていきます。
皮肉なことに、右派がヘイトスピーチまでして自由に意見を述べ、勢力を伸ばしていけるのは、リベラリズムによる文化的自由があるからです。もちろん、右翼や極右はリベラリズムを否定しながらも、この自由をうまく利用しています。
文化的自由は本来、憲法で認められている基本的人権です。社会が右傾化すると、憲法改正が唱えられるのは、不思議なことではありません。この文化的自由を制限、否定するため、改憲が必要になるのです。
(2019年9月20日、まさお)
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