学校名や大学名は聞きたくない
ここ数年、日本の高校生や大学生と知り合う機会が増えています。その時、とても気になることが一つあります。
それは、高校生だったら、xx高校x年、何の何某ですと、自己紹介されることです。大学生もまったく同じですね。xx大学x年、何の何某ですと、いわれます。
そう思うと、ぼくも日本で高校生だった時、そういっていたなあと思い出します。大学に入ってからかな、大学名をいわなくなったのは。大学の名前で自分のことを判断されたくなかったからもありますが、それよりはむしろ、大学にほとんどいっていなかったことからではなかったかとも思います。
ある私立の大学に在籍していましたが、世間では優秀な大学だと見られていたので、優秀でもないのに、その大学名でむしろ優秀だと思われるほうがいやだったし、荷が重かったというのもありました。
結局、大学は卒業できず、除籍されましたので、最終学歴は高卒です。

ドイツにいると、若者から学校がどこかとか、どの大学で勉強しているかは、いわれません。大切なのは、何を勉強しているかです。職業資格を取得するために勉強しているなら、どういう職業を身につけようとしているかです。大学生だったら、何を専攻しているかです。
ぼくにとってもそのほうが、この若者は何をしようとしているのかわかり、情報としてより価値があります。共通の話題も見つけやすくなります。
日本で高校生や大学生が、高校の名前や大学の名前をいっても、この若者のことがよくわかりません。日本ではそれが慣習なのでと、いってしまえばそれまでです。でもその背景には、どの高校、どの大学なら優秀と、学校の名前で能力が評価させていると思えてなりません。xx大卒というのも同じです。
この慣習の中には、日本の学歴主義や能力主義が隠れています。個人の能力が、高校や大学の名前だけで表面的に評価されています。それは、実際の能力とはまったく関係がありません。でも日本では、それが普通なのです。でもこれは、慇懃無礼な慣習です。丁寧に学校や学歴を聞きながら、それによって相手を判断しているのですから。
その慣習にどっぷりつかってしまっている日本の若者は、かわいそうになります。自分では気づかないまま、自己紹介する時に学校名をいうのですから。それによって、学校の名称で自分を判断してくださいといっているのとかわりません。
若者には、それに気づいてほしいと思います。でもそのことを、若者にそう求めると同時に、気づかせていない大人や社会にも問題があります。
高校や大学を卒業して就職すると、今度は会社名で能力が判断されます。結婚する時も、勤めている会社がとても重要な判断基準になります。結婚してこどもが生まれると、こどもは親の勤め先で判断されます。
日本では一生、学歴主義と能力主義にどっぷりつかって生きるのかと思うと、いやですね。ドイツにいてよかったと思います。学校という見せかけだけで、人間を表面的に評価する慣習は、もう止めてほしいと思います。そうした自己紹介はもう、聞きたくありません。
(2021年6月18日、まさお)
関連記事:
日本の新しい若者たち
現代社会は根性論ではどうにもならない
関連サイト:
東京大学