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当時のメルケル環境大臣が1998年にとんでもない安全性の規制緩和をしてから数ヶ月後、ドイツでは1998年9月に連邦議会選挙があった。その結果、社民党と緑の党が両党で過半数を獲得。16年間続いた中道右派のコール政権に終止符が打たれた。
社民党と緑の党の中道左派政権が成立するとすぐに、将来のエネルギー政策について政府と経済界が協議するエネルギー・コンセンサス会議が再開され、政府は電力業界と脱原発について交渉をはじめる。
交渉は、緑の党のトリティン環境大臣を中心に行われたが、進展しない。最終的には、シュレー
ダー首相自らが直接電力業界と交渉、2000年6月に脱原発合意がまとまった。
今回は、その合意内容についてだけ重要なポイントを列挙し、その背景については次回に、詳しく説明することにしたい。
2000年6月に政府と電力会社で合意された脱原発の内容は、以下の通り。
=原子力法に、ドイツが脱原発することを明記する。
=原発の新設を禁止する。
=商業運転開始後32年の運転を基準にして原子炉毎に残発電電力量を規定し、残発電電力量を使い尽くしたところで原子炉を停止する(そのため、正確な脱原発の時期は規定されなかった)。
=残発電電力量は、原子炉間と発電事業者間で譲渡することも認める。ただし、譲渡は古い原子炉から新しい原子炉を原則とし、その逆は認めない。
=前政権による安全性基準の規制緩和を撤回する。
=それまで自主的に実施していた定期的な安全性評価と確率論的安全性評価を10年周期で実施して、その結果を報告することを義務付ける。
=使用済み核燃料の再処理を2005年7月から行わない(これは、進行中の契約が切れる時点で止め、契約の更新をしないということだった)。
=それまで放射性廃棄物の中間貯蔵を中央中間貯蔵施設において行うことになっていたが、原発サイトに乾式中間貯蔵施設を設置して、原発毎に行う。
=事故損害賠償保険の最高限度額を10倍に引き上げる。
=原子力に関わる研究開発は、安全と廃炉、最終処分を目的とするものに限定する。
合意内容は、2002年4月施行の改正原子力法によって法制化され、ドイツの脱原発が法的に確定した。
合意内容は、電力側が脱原発を認める代わりに、政府は原発を安定して運転できるようにすることを保証するものだった。その点で、政府と電力会社の間のギブ・アンド・テーク的な要素が強く現れている。
というのは、当時各原発では、燃料貯蔵プールがかなり一杯で、貯蔵プールから使用済み核燃料を搬出して中間貯蔵施設に入れないと、燃料を交換できず、まもなく原発の運転ができなくなる可能性があったからだ。
しかし使用済み核燃料を中央中間貯蔵施設に輸送する時に、輸送妨害デモが激しく、十分な量を輸送できなくなる心配があった。
その輸送妨害デモを避けて原発を安定運転できるようにするのが、原発サイト内に中間貯蔵施設を設置することだった。
この合意が、ドイツの脱原発の一番の基盤になっている。
(2023年6月20日) |