さよなら減思力

ぼくは、もう日本人ではないのだろうか?

 人生の半分以上をドイツで暮らしていると、日本に一時帰った時に不安になることがあります。ドイツでは、ぼくは確かに日本人です。ぼくにもその自覚があります。日本人だといえば、日本人として扱ってもらえます。でも日本にいくと、どうもそうではないのです。性格的に、多分もう日本人ではないのではないかと思います。イエスかノーか、はっきりいいすぎるのです。日本で暮らす日本人にとって外見は日本人だけど、「変な日本人」なんだろうなと思います。

 ドイツで生きていくには、何事にも「イエス」か「ノー」か、はっきりいわないと生きていけません。空腹な時は、自分から「腹減った」とはっきりいわないと食べ物は出てきません。日本にいる時のように「おかまいなく」とか、「ちょっと前に食べたばかりなので」と遠慮していては、ドイツでは生きていけません。

 ほしいものはほしい。いらないものはいらないのです。日本の実家に帰った時に、「いらない」といったのにお茶が出てきて、お菓子まできました。「いらないといったでしょ!」と、つい苛立ってしまいました。日本人らしくないですね。

 ドイツで長く生きてきた以上、こうした生活態度はどうにも変えようがありません。だからぼくの振る舞いは、日本ではもう日本人ではないのです。

 長く外国で暮らしていると、性格どころか、日本語も乱れてきます。その現実は、前半の「在独日本人の口から出た変な日本語」でわかっていただけたと思います。ドイツにいると、日本や日本語の変なところやドイツと違うところもすごく気になります。

 ことばは、物事を示す記号です。記号が同じでも、物事が同じだとは限りません。日本とドイツという違った国では、ことばという記号の示す同一性が保証されていません。

 ぼくがサイトで掲載している⎡在外日本人珍語集⎦の場合、ことばという記号が間違っていても、コンテキストから日本における慣習を読み取ることができます。だから、いっていることがわかります。その記号のちょっとした間違いが、笑いの種になる程度で終わります。

 でも、日本の慣習のないドイツでは、ことばを使うコンテキストが一致しているとは限りません。ことばが経てきた歴史上の背景や文化も違います。そういう環境の違うところでは、ことばという記号の示すものがすべて同じとは限りません。あるいは日本の慣習とは違って、別の記号に変わってしまっていることもあります。そういう時、日本の慣習がむしろ変に感じます。

 それは、ドイツというコンテキストの違う国にいるから気づくのです。外から日本を見ないことには、わからないことがたくさんあります。

 こうして国外で日本のおかしさに気づいて発言する異邦人的な日本人がたくさん出てくればいいなと思います。それで、日本が少しずつ多様化し、変わっていってほしいと思います。

(2017年8月03日、まさお)

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