社会を分断するソーシャルメディア

 ぼくは、フェイスブックもツイッターもしていません。ぼくの個人情報がどう使われているかわからないからです。それでも、不自由はありません。

 ソーシャルメディアで問題だと思うのは、同じ意見を持つ仲間同士でしかコミュニケーションが行なわれないことです。みんな同じ考えを持っているという安心感があるので、書かれている内容やデータはどうでもいい。書かれていることが正しいのか、間違っているかも大きな意味を持ちません。仲間だということが一番で、自分の関わっている社会が社会で同化されていると錯覚します。

 違う意見があることも見失います。違う考えがあることを知り、違う考えを持つ人との対話が生まれません。社会が仲間同士でサークル化され、分裂します。

 これは、一人取り残されることに対する社会への不安の現れでもあります。違う考えを持つ人と対話する勇気と忍耐が失われているからでもあります。対話のない状況は、民主主義にとってとても危機的な状態だといわなければなりません。

 同じ考えを持つ者同士でしかコミュニケーションしない社会。それは、仲間同士で同じ枠組みでしか考えない社会です。社会の多様性が失われ、考えの異なる人との対話がなくなります。極端な考え方を生みやすい地盤を生み出しています。

 ネット上では、中傷や批判が扇動的で、過激です。相手の人権さえも、無理しています。それは、仲間がいるという安心感と、自分の顔は表に出ない、実名も名乗る必要がないという安心感から生まれる強がりであり、おごりです。

 ネット上でも、言論の自由は守られなければなりません。でも、人権を侵害するような扇動的で、過激な記述、脅迫や脅しはヘートスピーチです。規制されなければなりません。それは、言論の自由よりも人間の尊厳を侵害してはならないことのほうが重い価値を持っているからです。ここで人間としたのは、日本の憲法でいう国民ではなく、すべての人に対してそうでなければならないからです。このことを忘れてはなりません。

 ドイツの憲法に相当する基本法は第一条で、「人間の尊厳は、侵害することができない」とあります。それに対して日本の憲法の第十一条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」としています。

 ここで、「人間」とするか「国民」とするかは、大きな違いです。そこに、今のドイツと日本の社会の違いも現れていると思います。

 扇動的なヘートスピーチをネット上でアップしたまま、消去しないソーシャルメディアのプロバイダーも、「同じ穴のムジナ」といわなければなりません。プロバイダーも規制対象にする必要があります。

 ドイツでは2018年1月からネット上の記載に対する規制がはじまり、ソーシャルメディアのプロバイダーが自主的に問題のある記事を削除しなくてはならなくなっています。ただそれによって過剰な自主規制で言論の自由が妨害される危険もあり、規制がはじまったばかりでいろいろ問題も出てきています。

 日本のネット上では、サイトの設置者が明確に記載されていません。ぼくには、それが不思議でなりません。サイトで情報や意見を発する以上、素性を明らかにしてそれに対して責任を持つべきです。素性と連絡先の記載を法的に義務化すべきだと思います。

(2018年1月12日、まさお)

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