日本の新しい母ちゃんたち

 2014年6月、福島県飯館村の女性10人がベルリンにやってきました。25年前にドイツとフランスの海外研修旅行に参加した福島県飯館村の「若妻の翼」の19人のうちの10人の母ちゃんたちでした。三・一一後に飯館村から避難することを強いられ、福島県内でちりちりばらばらに疎開生活を送っています。

 拙書『ドイツ・低線量被曝から28年—チェルノブイリはおわっていない』が出るちょうど1年前に同じく言叢社から出た『山の珈琲屋 飯館「 椏 久里」の記録』の著者の1人市澤美由紀さんを中心にして、ベルリンにくることになりました。

 25年前にドイツを訪れた時は、ベルリンの壁が崩壊する数カ月前でした。ベルリンの壁が崩壊して、東西ドイツが統一されます。冷戦が終結しました。その後、日本のあるテレビ局がベルリンの壁跡地に桜の木を植樹する「桜キャンペーン」を開始しました。飯館村の若妻たちは、植樹する桜の苗木のためにカンパします。

 その桜が今、どうなっているのか。成長している姿を見たい。それが、10人をベルリンに引き寄せた動機でした。25年前に訪独した自分たちのそれからの姿と、ベルリンの壁崩壊後に植樹された桜の木が成長する姿が、二重映しになっていたのだと思います。

 自分たちは三・一一後避難して、いつ飯館村に戻ることができるかわからず、不安と苦渋の生活を送っている。でも自分たちが贈った桜の木には、大きく育っていてほしい。桜の木を見たいとは、自分たちの今の境遇を忘れて、すくすく育った桜の木の姿をみたい、そして希望を持ちたいということではなかったのかと思います。

 25年前の1989年9月、農家としてはたいへん忙しい時期に働き盛りの19人の若妻たちが、父ちゃんとこども、農作業を村に置いてヨーロッパに旅立ちます。日本の農家からすれば、とんでもない新しい母ちゃんたちです。飯館村のことを知るにつれ、飯館村が進歩的で、住民自治の確立した独立した村であることがよくわかりました。

 はじめて体験するヨーロッパは、若妻たちにドカーンとカルチャーショックを与えたに違いありません。ある母ちゃんは、成田に戻った時にはもうこどもの顔を忘れていましたと語ってくれました。母ちゃんたちは、家族と村を残して異文化と対話していたのでした。

 そんな飛んだ25年前の若妻たちを、ぼくが黒一点で迎え入れる。とんでもないことになったとプレッシャーを感じながら、待ち合わせのホテルに向かいました。ホテルのロビーで会った母ちゃんたちは、もう若妻ではありません。でも生き生きとしてパワーに満ちあふれ、ともて若々しい感じがしました。

桜の並木道

 ぼくが案内したのは、「ボーンホルム通り検問所」のすぐ下にある桜の木です。ベルリンの壁が崩壊した時、一番最初に開放された検問所でした。

 当日は、真夏のように暑い日でした。ホテルから電車を乗り継いでボーンホルム通り駅に着きます。まず、検問所のあった辺りで壁崩壊の日の話を簡単にしました。

 その後、桜の木を見るために橋の脇から下に降りました。桜の木は、電車の線路沿いに植樹されています。並木道のように、細い遊歩道の両側に桜の葉が青々と茂っています。桜の木のトンネルを歩いているようです。

 すると、「桜の花が咲いているわよ」と甲高い、はしゃいだ声が聞こえてきました。みんながそこに集まります。6月の真夏のような暑い日。桜の花が咲いていることなど考えられません。

狂い咲きしていた八重桜の花

 本当でした。上の橋から降りたすぐ脇のところにある一本の桜の木。青々と茂る葉に混じって桜の花が三輪、ひっそりと隠れるように咲いていました。八重桜の花です。

 母ちゃんたちは、「桜の花よ。すごい、すごい!」と歓声を上げました。感極まって、目頭を熱くしている人もいます。

 思ってもみなかった桜の花。飯館村の母ちゃんたちのために咲いてくれていたとしか思えません。その桜の花が、母ちゃんたちの重い気持ちを和ませてくれたのは間違いありません。

 ベルリンにきてもらってよかった。ぼくは、必至に涙をこらえていました。

(2018年2月23日、まさお)

(初稿は、言叢社のブログに掲載)

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