わからない元号フィーバー

 日本では、5月1日から新しい元号「令和」に変わります。

 日本では、その由来が万葉集だとか、そうではないとかいろいろ議論されているのは、ベルリンまで聞こえてきます。安倍首相の「安」が元号に入るという噂が事前にあり、それでホッとしている人たちも多いのだと聞きました。

 日本では、元号についてあれこれ騒がれています。でもこうした元号に絡む日本のフィーバーぶりは、ベルリンにいるとよくわかりません。むしろ、天皇が変わることとは関係なく、元号だけが一人歩きしているようにも感じます。

 このようなフィーバーぶりは、平成に変わる時にはなかったように思いますが、どうでしたでしょうか。

 ベルリンにいると、元号を使うのは領事館で書類を記入するくらい。それ以外は、元号があるのはむしろ面倒です。元号年を見るごとに、検索エンジンに入力して西暦で何年になるのかを調べなければなりません。

 日本には、年度というやっかいなものもあります。日本は、会計年度、学校年度を中心に年度で動いています。何かにつけ、その制度をドイツ人に説明しなければならないこともあります。

 ベルリンにいると、元号は邪魔なのです。

 ただ、元号を廃止したほうがいいとまではいいません。日本古来の歴史があるので、それを維持していくことに反対ではありません。

 でもこれだけグローバル化された社会においては、元号が時代にマッチしていないのも事実です。そのため、公文書をはじめとして実務的な用途には、元号年ではなく、西暦年を使うことを、今回元号が変わるのを機にもっと真剣に議論してもらいたかったと思います。

 外交文書に関しては、西暦年だけを使うことに官邸がストップをかけたとも報道されていたと思います。

 元号が変わることによって、いろいろと経費も発生します。経済的には、かなり大きな負担にもなると思います。

 こうした元号に係る問題はまったく議論されず、新しい元号にばかり注目が集まっている日本社会。

 元号が万葉集に由来するなら、日本の古典に対する関心が高まってもおかしくありません。でも、万葉集ブームが起こっているということも聞いていません。

 世界との関わりにも関心を持たず、日本のルーツでもある古典にも関心を持たないとはどういうことなのか、ぼくにはよくわかりません。社会がとても内向きになっているとしか感じられません。それが今、日本社会を右傾化させている背景でもあるのでしょうか。

 でも日本の社会が、単に自分の周りのことと、今の自分にしか関心がないのだとしたら悲しいですね。

(2019年4月26日、まさお)

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