天安門事件30年

 中国の北京で天安門事件が起こって30年。事件では、学生や市民が民主化を求めて天安門広場に集まりました。しかし軍によって弾圧され、たくさんの人が亡くなりました。

 ぼくの記憶の中には、その時の映像がまだはっきり焼き付いています。

 その時東ドイツにいたぼくにとって、北京で民主化を求めた人たちが武力弾圧によってたくさん殺されたということが、東ドイツの民主化運動に大きな影響を与えたと見えるからです。

 北京で起こった天安門事件のように、民主化運動によって市民が殺害されてはならならい。天安門事件が東ドイツで繰り返されてはならない。

 そういう思いが、天安門事件後に東ドイツにおいて早いテンポで広がったと記憶しています。

 東ドイツでは、民主化運動が具体的に形となって動きだしたのは、1989年の9月になってからでした。ノイエス・フォールムという名称で、市民有志が署名した民主化を求める声明文が発表されました。

 それまで、国を捨ててハンガリーなど東欧諸国から西側へ逃れる東ドイツ市民が急増していました。

 かといって、どうすれば天安門事件の二の舞を踏まないで民主化を達成できるのか。具体的な戦略はなかったと思います。東ドイツの民主化運動では、リーダーがいて国全体で民主化運動がまとまっていたわけではありません。各地で独自に、民主化運動が起こりました。

 流血だけは避けたい。各地で、そういう思いしかなかったと思います。でもそれによって、民主化運動が躊躇されたわけではありません。

 東ドイツと中国の民主化運動にあった大きな違いは、教会の役割だったと思います。社会主義体制下の東ドイツにおいて、宗教は否定されていました。でも教会はその中で、独裁体制と市民の間を仲介していました。教会は宗教というよりは、政治的、社会的な役割を果たしていたと思います。

 東ドイツではそのため、民主化運動が教会によって保護されていたといえます。民主化のための市民集会は、教会で行われていました。治安当局は武力を行使してまで、教会に侵入することはできませんでした。教会が独裁体制から民主化運動を守る防波堤になっていたといえると思います。

 そうはいっても、東ドイツにおいても民主化運動が武力によって弾圧され、死者が出る可能性はいつでもあったと思います。そうならなかったのは、その場その場でエスカレーションしなかったからにすぎないと思います。

 あるいは、1989年10月9日にライプツィヒであったデモのように、市民が手にロウソクを持ってデモしたことが、偶然にも武力放棄を意味することになったからかもしれません。
 
 これらいろいろな背景については、拙書「小さな革命、東ドイツ市民の体験」(言叢社刊)を読んでいただいてもわかると思います。

 現在、社会にはエスカレーションすることばかりです。相手に圧力をかけて困らせ、自分の有利になることばかりが考えられています。でもそれが、暴力を引き起こす種になることをはっきり認識しなければなりません。

(2019年6月09日、まさお)

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