高市推し活ってなーに? ドイツからはこう見える

 2026年2月の衆議院選挙では、自民党がバカ勝ちしました。ここまで大差で自民党が勝つとは思っていませんでしたが、政策論争もなく、まだ首相になって間もない高市首相の人気投票のような選挙。自民圧勝というのは不思議ではなかったのかもしれません。

 「推し活」ということばがあるのも、衆院選後にはじめて知りました。日本は遠くなったなあと、浦島太郎のように感じます。

 ぼくは、選挙区と比例区がリンクしない日本の選挙制度は民主主義に反する(「日本の選挙制度は民主主義の原則に反する」)と思っています。日本の選挙制度ではこれまでもあったように、選挙区で一人勝ちすれば、大差で勝てます。

 選挙区では当選するか落選するかなので、1票差で落選しても、票差は議席数に反映されません。落選した候補者に投票された票はすべて、死票になります。ドイツのように比例区における政党の得票率に応じて議席が割り振られるほうが、投票された票数に応じて議席が配分され、民主主義的になります。

 しかしここで民主主義ということばを使うと、日本の若者からは飽きられるかな。若者の多くが高市押し活で自民党に投票したことがいろいろ議論されているようですが、それで日本の若者の実態を掴めるのかどうかははなはだ疑問です。

 そこで気になったのは、日本の若者がリベラル化してきたと見られていることです。若者の意識調査でも、若者自身が自分をリベラル派だと自認していることがわかります。

 日本の若者が社会の多様性を支持し、対話を求めて寛容になり、リベラルになってきているというのです。若者はリベラルになったはずなのに、なぜ超保守的な高市に魅力を感じ、自民党に投票したのか。日本のある新聞では、知識人といわれる人たちに取材して分析されていました。「リベラル」といっても、若者と中高年ガチガチのリベラル派とは違うのだからという論調もありました。

 日本の若者は「リベラル」を、自分らしく生きる個として自由を求める意識のように捉えていると分析されていました。

 ぼく自身は自分を、リベラルとも保守とも思ったことがありません。自分で見聞きしたこと、調べたことから判断して自分の考えを持とうとしているだけです。その結果、他の人から見ればリベラルだと映るかもしれません。保守的だと感じるなら、保守だと思ってもらえばいいのです。ぼくのことを反原発派と思う人もいれば、原発推進派だとする人もいます。

 勝手にレッテルをはってもらっていいのです。

 ぼくはこれまでほぼ毎年、政治と平和、エネルギーなどをテーマにして、福島県の高校生と一緒にベルリンを歩いて回りました。最近は、日本の大学生とも一緒に歩くようになりました。

福島県の高校生がベルリンにくると、ベルリン近郊にあるザクセンハウゼン強制収容所記念施設に一緒にいきます。2023年8月撮影

 日本の若者と一緒に行動して思うのは、日本の若者は歩くのが遅いなあということです。ぼくが自分のテンポで歩くと、すぐにぼく1人が先にいってしまい、若者が来るのを待っていなければなりません。

 せっかくベルリンにきていろんなことを吸収するチャンスなのだから、ぼくの話を聞いていつでも質問できるように、ぼくのテンポに合わせてついてこないのかと思います。そういうガッツはないのです。

 さらに気になるのは、本サイトですでに書いたことがありますが、自己紹介する時にまず最初に、xx高校x年AAAですとか、xxx大学BBBですという前置きがあることです。高校名や大学名の看板を背負って勉強しているのかと思ってしまいます。

 いつもCCさんの奥様と呼ばれるのがいやで離婚した日本女性がいると聞いたことがありますが、こういう女性は日本では異端なんですかね。ぼくは、その女性の気持ちがよくわかります。

 高校生はドイツ語はわかりませんが、ドイツの高校で授業に参加します。普段は私服で自由な服装をしているのに、その時になると日本の高校で着ている制服を着てきます。ドイツの高校では制服の着用などまったく義務つけられていないのを目の当たりにしているはずなのに、制服なのです。

 そこには、自分という「個」の自由がありません。社会のしきたりがこうだからとか、規則だからとか、みんなもそうしているから、自分もそうしているのがわかります。そのほうが考えなくていいし、気楽なのでしょうね。

 福島県の高校生はドイツで、自分の震災・原発事故体験を英語で報告します。その時、災害から立ち直ろうとする県の復興のために自分が何かしないといけない、そのために人生を捧げるという意識を持っている高校生がほとんどです。それはある意味で美しい話です。しかしそこにも、「個」の自由がありません。社会の運命に束縛されています。

 結局、福島はもう安全です、名物のもももたいへんおいしいのでぜひ食べにきてくださいと、原発事故の現実を自分で見たり、調べたりしないで、県の宣伝大使としてきたようなことをいいます。

 ドイツの高校生と一緒にいて目立つのは、日本の高校生が日本の政治や戦争の過去についてほとんど何も知らないことです。ですからドイツの高校生とは、政治と平和について一緒に対話してもらおうとしても、対話になりません。

 大学生の場合は、日本のことを勉強してよく知っているなあと思う大学生もあれば、まったく知識が蓄積されていない大学生もいて、その差がとても大きくなっているのがわかります。しかし知識の深さや理解力は、ドイツの大学生のほうが日本の大学生よりもしっかりと身につけていると感じます。政治や社会に対しても、ドイツの高校生のほうが日本の大学生よりも余程しっかりした自分の考えを持っています。

 この日独の若者の差は、どこからくるのでしょうか。ぼくは、詰め込み型の日本の教育と考えることを身につけさせるドイツの教育の差からきているのではないかと思います。

 結局、日本の高校生だけではなく、大学生も自分の考えを表現するのが苦手というか、むしろはっきりと伝えることができません。しかしそのほうが、議論しない、自分の考えをいわないほうがいいという日本社会では、生きやすいのかもしれません。

 それでいて、日本の若者は本当に、自分らしく生きる個として自由を求めるようになったのでしょうか。

 福島県の高校生はドイツの高校で授業に参加して、考える力を身につけることの大切さを痛感させられ、ドイツにいる間だけで早いテンポで成長していきます。日本に帰国する時には、両親や先生がびっくりするくらいに自分の考えをはっきりいえるようになっています。しかし高校生たちと別れる時、そういう習慣のない日本社会に戻って高校生がやっていけるかな、潰されないかなと、ぼくはいつも心配でなりません。

 ドイツにきて一緒に学んで歩いた高校生の中にはこれまで、ドイツで留学したいとい高校生がたくさんいました。しかしいざ日本に戻ると、ドイツで持った自分の意志を貫徹できる高校生はほとんどいません。親がそうさせてくれないなど、日本社会においていろいろな壁にぶち当たっています。

 個として自由に生きるのは頭の中ではわかっていても、日本の若者には現実として難しいことなんだなあと思えてなりません。

 日本で女性としてはじめて首相になり、世襲政治家でもない新しい高市首相。まだ首相ホヤホヤで実績がなく、いいたい放題している首相です。そういうところに、若者はたちは自分のできないことを押し通している首相として写り、魅力を感じたのではないでしょうか。

 ソーシャルメディアなどによって拡散された動画が高市首相像をそう演出して、若者をひきつけたともいえます。政策ではなく、人気で選挙した戦略勝ちですね。それで、高市推し活旋風が吹いたのでしょうね。ドイツで日本の若者と学んできた体験からすると、そう思ってしまいます。

 しかしそうして得た人気は、ちょっとしたことで崩れてしまいやすいのではないかな。それは、ぼくの切な希望でもありますが。

(2026年2月25日、まさお)

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関連サイト:
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中日新聞電子版、2026年2月10日
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