人権意識の有無
サッカー・ワールドカップで、日本代表チームがクロアチアに惜敗しました。それとともに、日本におけるワールドカップ・フィーバーは終わりました。
日本のサッカーが強くなったのは確かです。ドイツ側にいろいろミスがあったとはいえ、ドイツが初戦で日本に負けたのは、勝ちたいというガッツの差が出たと思います。
今回、サッカー・ワールドカップ期間中に日本に滞在しているのは、ぼくにとって今の日本社会を知る上で、とても勉強になっています。
その一つが、日本の人権に対する意識の問題です。
普段ドイツというヨーロッパに暮らしていると、人権を擁護することがいかに大切かを肌で感じています。人権はすべての人の基本的な権利です。いかなる状況においても、擁護しなければなりません。
今日本にいて、ワールドカップ・カタール開催に対して、この人権問題でかなりの温度差を感じざるを得ません。日本では日本代表チームへの期待が大きかったからということもありますが、それだけが原因ではないと思います。
ワールドカップの日本の報道では、ワールドカップ関連施設の建設において外国人労働者が死亡するなど、過酷な条件で労働させられていた問題や、LGBTなど性的少数者を認めないなどの人権問題は、取り扱いがとても小さいと感じます。
社会でも、ほとんど関心が持たれていません。
それどころかテレビでは、大学教授など識者といわれる人たちが、人権は大切だが、カタールの文化や生活習慣を無視して欧州の価値観を押し付けるのはおかしいとか、欧州の過去や現実を無視した二枚舌だと批判したりしていました。
こういうのを見ると、日本では大学教授でさえも、人権に関して理解していないと感じます。
世界人権宣言にもあるように、人権を擁護するのは世界共通の価値観です。その価値観は、ヨーロッパも含め現実の社会において、実現されていない場合が多々あります。だから、それを守りましょう。そう主張していなかければなりません。
相手国の文化を無視するのではなく、世界共通の価値観を守りましょうと指摘しているのです。それは、押しつけではありません。
その主張を、開催国のカタールにおいて口封じするのは、言論の自由を侵害することになります。カタールにおいて言論の自由が法的に制限されるなら、それも世界人権宣言に反します。それも、指摘しなければなりません。
オリンピックにしろ、サッカー・ワールドカップしろ、主催者であるIOC(国際オリンピック委員会)やFIFA(国際サッカー連盟)は、スポーツに政治を持ち込んではならないと主張します。しかしIOCもFIFAも商業主義化してしまい、できるだけたくさんの利益を求めて、開催国のいいなりになっているにすぎません
異なる文化と価値観がスポーツを通して接触し、そこからお互いに学ぶ。本来スポーツの祭典には、そういう意義があります。IOCもFIFAもそれを忘れてしまっています。
そうしない限り、人類は進歩しません。
日本のコロナ禍における病院の面会禁止問題を見ても、それが人権に関わる問題であるという意識が、日本社会にはありません。
今母に面会にいく時、病院側は抗原検査で陰性証明を持ってこいとさえも求めません。ドイツでは、陰性証明がないと医療機関や介護施設では面会できません。どちらが安全ですか。もちろん、陰性証明があったほうが安全に面会できます。
そうしたルール造りをすれば、面会は可能になります。そうして、人に会う権利を守ることもできます。そうした簡単な努力もしないで、コロナ対策ばかりを厳しくする日本。それに順応してしまう市民。
どこかおかしくないですか。
カタールの人権問題に対する対応にしろ、コロナ禍における面会禁止問題にしろ、日本社会には人権意識がないのかと疑わざるを得ません。結局、目先にとらわれ、本来守るべきことが無視されています。
本末転倒ですね。
(2022年12月07日、まさお)
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関連サイト:
世界人権宣言テキスト(日本語)